職員休憩室

今夜は友人とドライブに行くので、会社の休憩時間中にブログを書いている。

「会社」と言ったが、私の勤務先は株式会社ではない。社会福祉法人である。「会社」と言う感じはあまりなく、「施設」ないし「事業所」という感覚に近い。経営者も、この組織を「法人」と呼んでいる。労働者も「社員」ではなく「職員」と呼ばれる。私達は「入社」ではなく「入職」してきたのだ。

この法人に入って以来、私/私達は休憩室で食事を取っている。時間の制約があるためか、それとも、ただ億劫なためか、外食に行くことはほとんどない。社員食堂はあるにはあるが、足立区の事業所から松戸市のそれに異動してからは、それもないので、今ではカップラーメンとおむすび(あるいはパン)が、出勤日の私の主な昼食である。

「粗食」と呼ぶにはあまりにも貧しい。或る労働者階級の食事である。

総武線の席に坐りて

最近「ブログを書いていないじゃないか」というお叱りを頂く。

実際の所、ブログだけではなく、今、書いているものと言えば、短歌と日記、そして、こまごまとした文章くらいで、総じて生産量は低い。

ブログが収益にならないことを知ってしまったから、モチベーションを喪失したのではないか。確かにそれは一理あるかもしれないけれども、本当の問題は実生活の方にある。酒の飲みすぎである。しかも、なお悪いことに飲み歩いているから、書けない/書かないのではないか。中年に足を踏み入れるにつれて、私も巷間の悪習を身に着けてしまったのかもしれない。酒場通いは最近自粛しているけれども、それでも家では仕事と勉強を放擲して飲酒するのだから、酒に溺れているのである。仮に一抹の弁解の余地があるとすれば、近頃は不眠症が昂じて、体調不良が続いていたけれども、これはまたの機会に書く。

今、横浜から小岩までの帰路、総武線普通電車の座席に坐りながら、脚の上にノートパソコンを置いて、この原稿を書いている。この体勢、案外楽に書けるものだ。これからは気軽にノートパソコンを持ち歩いて、暇さえあれば原稿のライト、リライトをしていきたい。時間と場所にこだわらない。総生産量を上げるのだ。

予め原稿を書き溜めておく。この日より、当ブログは毎日更新する。

当世学生気質

10年ぶりに母校の講義と演習ゼミナールに参加した。

講師は明治学院大学 国際学部の浪岡新太郎教授。先生は私達が大学1年生の時に立教大学の助教1を務めていらっしゃった。その後、外務省の勤務を経て、前記の大学に就職された。私の政治学の恩師の一人である。

私が出席した講義は〈グローバル社会での平和構築〉。全学共通カリキュラムという、昔の一般教養課程に相当するもので、受講者の大半は1、2年生だ。そこに35歳のオジサンが交っているのだから苦笑してしまう。

実際に講義に参加して驚いたことがふたつある。

一、学生が真面目である。授業中、皆、静かに講義を聴いていて、私語をする人、居眠りをする人はほとんどいない。私が学生の頃はそれと真逆の態度で講義に臨んでいたので、本当に先生達を困らせた。自分も含めて当時の学生は、高度経済成長を経てバブル経済で頂点に達した、レジャーランド化した大学のイメージを引きずっていたのかもしれない。私達の置かれた環境は本当はもっと過酷だったにもかかわらず——現実認識が甘かったのだ。それに比べると、現代の学生はもっとちゃんとしている。時間と学費を掛けた丈、学ぼうとする意欲がある。自分達の住む世界は生易しくないという事実を、感覚的に、学問的に理解しているのかもしれない。

二、パソコンが普及している。実に三分の一以上の学生がパソコンでノートテイクをしていた。これは驚いた。講義の風景が違うのである。私達が学生の頃は、1人、2人のモノ好きがタイピングの音が響かぬよう、教室の片隅でカタカタいじっていた程度である。隔世の感がある。初等教育だけではない、高等教育、ことに大学においても、マイクロソフトとアップルの営業戦略は奏功した訳だ。それはさておき、私は断然手書き派である。第一、私のタイピングの打鍵音はうるさいので、周囲に迷惑をかける。しかし、それ以上に、人はデバイスを操る(遊ぶ)ことに夢中になって、講義に集中できないのではないか? 人の話を画面越しに聴くのは難しいのではないか? と、老婆心に似た余計なことを考えながら、私は緑の手帳〈野帳〉に鉛筆でメモを取っていた。これは新聞屋でライターをしていた頃から続く、私の昔気質のスタイルだ。

自分が歳を取ったこと、しかし、晩学の楽しみを噛みしめつつ、ゼミの終了後、先生と私と学友は池袋のふくろで乾杯したのであった。

tabelog.com


  1. 昔の助手のような地位。テニュアではない、任期付きの職位。

荒野へ

なんぢら人を避け、寂しき處に、いざ来りて暫しいこへ。
——『マルコ傳福音書』第6章31節

短歌は上達している。言い換えれば、短歌しか書いていない。

『作歌のヒント』で永田和宏が言うように、短歌の上達のヒントは、一般的に短歌の結社に入ることだと言われている。結社に入れば、定期的に歌会に参加し、批評し合い表現を磨き、作品発表の場として結社誌(同人誌)を発行し、自分以外の同時代の他人の作品を知ることができる。なによりも有難いのは、適宜、飲み会を開催することで、アルコールと社交ソサイエティの相互作用で、適度に孤独を癒してくれることだ。しかし、作品を書いている時は誰でも一人だ。孤独は——人間は皆、原罪と神聖を宿しているように——作家に平等に課せられた重荷である。作家の成長の要諦は、孤独の重みに耐える体力を養うことにある。

以前の私は社交が文学を加速させると考えていた。短歌の結社に入ったのもそのためだし、懇意にしている喫茶店の文学カフェにも顔を出していた。しかし、社交は文学のポジにすぎない。本当に大切なのは孤独と言うネガである。世界はポジとネガが交錯してできている。両者は車の両輪のごとく、相互に成長することによって、作品と世界は豊かになる。しかし、作家の個性を養うのは圧倒的にネガの方である。ポジに振れると、人は無個性になる。のっぺらぼうになる。ハイデガーが『存在と時間』の中で、公共性エッフェントリヒケイトの病理を指摘したように。

今後は結社誌に掲載された作品をお義理に読むことも少なくなるだろう。かつての私はそうして勉強することによって、一言二言、お世辞を、気の利いたことを言うことが、文学共和国を建設すると考えていた。確かにそれは正しい。しかし、今の私は共和主義者ではない。民主主義者には違いないけど、暫定的に浪漫主義者としておく。以後の私は古典を中心に選りすぐりの作品を読んでいく。安易に現代の口語短歌にはなびかない。格調高い文語の形式を遵守していく。私は形式主義者フォルマリストだ。傲慢な考えかもしれないが、結局、これ以外に作品を良くする方法はないのだ。いいものを書きたい。今はそのために努力を傾けるべき時である。

政治学者/歌人 南原繁が処女作『国家と宗教』を上梓した時の一首。

かそかなるふみにしあれどわが心うちに嘆きて書きにけるもの1


  1. 南原繁『形相』(岩波書店、岩波文庫、1984年)156頁。

福祉レボリューション

第34回 介護福祉士試験に合格した。受験資格には3年間の実務経験が必要だから1、私は叩き上げの一人前の介護士として認められたことになる。私は介護の専門家になったのだ。

思えば3年前、厚生労働省(ハローワーク)の職業訓練プログラムで、介護初任者研修を受けたのが始まりだった。それまで出版業界で働いていた私はキャリアの継続に挫折して、これから先どう生きていいのか途方に暮れていた。飲食業、バーテンダーに転身することも考えていたが、当時の私は酒場に顔を出すことも、飲み歩く習慣もなかったので、ただ酒が好きなだけでは勤まらないと観念して、別の方向に転じることにした。ただし、オフィスワーク、デスクワークで心身の調子を崩していたので、なるべく身体を動かす仕事がしたい、と思っていた。すると、介護、介護士が選択肢として浮上してきた。当時、付き合っていた女性は「崇志くんが介護するなんて、もったいない」と言ったが、私は巨大な体躯を持て余していたので、少しも惜しくはなかった。確かに、ホワイトカラーからブルーカラーに降りることは経済的、社会的な下降を意味するかもしれない。もっと俗な言い方をしてしまえば経歴キャリアきずが付くかもしれない。しかし、危機の時、みずから進んで降りる勇気のなさに、私は中産階級の懦弱を見ていた。それは本当の意味で知識人とは言えない。日本の市民社会の欠陥は、案外こんな所にあるのかもしれない。

話が逸れた。今後の課題はこの資格を何に生かすか、どんな仕事をするか、ということだ。

確かに、超高齢化社会において介護の求人はいくらでもある。職にあぶれることはないだろう。けれども、それだけでは不十分だ。私は仕事に対して夢や希望を持ちたい。実はけっこう仕事師なのだ。

次の目標は精神保健福祉士(MentalHealth (psychiatric) SocialWorker)になることだ。精神科のソーシャルワーカーである。この職を得ることで、私は自分を含めた精神病者、精神障害者を救済したい。かつて出版社の上司と先輩が、私に記事の見出しのつけ方、紙の都合の仕方などを教えてくれて、のちに私にライターとして独立を励ましたように、今度は並行して福祉のキャリアを育てたい。かつて、ヨーゼフ・シュンペーターは『経済発展の理論』の中で、企業家は異なる事業を組み合わせることで、技術革新イノベーションを生み、経済成長を促すと主張したように、私は文筆と福祉を組み合わせて、革命レボリューションを行いたい。ライターとソーシャルワーカーの仕事を通じて、私は世直しをしたい。これは極めて政治的な企図プロジェクトである。


  1. 介護福祉士養成校の卒業生、卒業見込生を除く。

場所と才能

どこに住めば仕事ができるのか? 収入が増えるのか? 才能が開花するのか? 30歳の頃の私はそのような現金な問いをえんえんと繰り返していた。

経済学や地理学、あるいは地政学の本に感化されたのではないか、と思われるかもしれないが、私の場合は文学だった。当時、〈塔〉という短歌の結社に入っていて、毎月1回(日)、浅草橋の中央区産業会館で歌会を開催していた。所沢の下宿を出て、そこに参加する中で、私はそのような歌を通じた社交が、歌人ないし文学者を育てるのではないかと漠然と感じていた。中村真一郎は『色好みの構造』の中で、文学の秘訣は「孤独ならざる社交生活」と看破しているが、当時の私には、先生とライバルが身近に存在し、恩寵、嫉妬などの感情にたびたび見舞われることになった。本当に苦労したのは、健康的、経済的理由で、結社を離れて、一人で書いていたその後の3年間であるが、そのことについては、ここでは深くは触れない。ただし、孤独が私を鍛え、ブログという個人的なメディアが私を支えてくれたのは確かである。孤独なのに孤独ではなかった。孤独は私の原点、アルファでありオメガである。

住む場所と仕事、そして才能について、いたく考えさせられたのは、リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』を読んでからである。小説家、詩人のジェイムズ・ジョイスは、アイルランドのダブリンに生まれ、ローマ、チューリッヒ、パリと変遷し、最後にチューリッヒで没した。ここまで書いて分かることだが、すべて大都市である。ジョイスは生粋の都会っ子シティボーイであった。彼の住んだ街と作品は関係している。街の人々は彼の才能を見出し、彼の才能を育てた。作家と文学青年の次のようなくだりがある。

文学青年「どうして私にこんなに親切にしてくれるのですか?」

作家「私が友達を作るのは目的があるからですよ」

文学青年「あなたは冷たい人間ですね!」

作家「おやおや、私に感情がないとは!」

場所と才能の相関・相乗関係について、私が漠然と抱いていた予感を、実証的に証明してくれたのは、都市社会学者のリチャード・フロリダである。都市には人口と才能の集積効果があり、それによって技術革新や経済成長がもたらされるというのだ。人間に、社交的、内向的、あるいは開放的、閉鎖的、陽気、陰気など、多彩な性格があるように、都市にも独特の性格がある。人々は自身と似た都市に惹きつけられる。両者の性格が一致することで、人間と都市は奇跡的な成長を遂げるのだ。ことに経済成長に関して有意な性格は(経験の)開放性、すなわち好奇心、進取の気風、こだわりのない社交性である。フロリダによれば「広域東京圏」はこれに該当するのだそうだ。私は今、千葉で働いているが、そろそろ東京に帰還したい。私は東京を必要とし、東京は私を必要としているのだろうか? その趨勢を見極めたい。

小説の生理学

花の小説家

吉行淳之介について、このブログでも何度か書いているが、彼の作品について書くのは、今回が初めてである。彼について言えば、私の中で或るイメージが先行している。NHKの連続テレビ小説『あぐり』(1997年)である。

左記のドラマは、美容師の「あぐり」を主人公にして、「望月」一家の影像を映しているが、モデルはまぎれもなく「吉行」一家である。小説家/ダダイストのエイスケと美容師のあぐりの夫婦は、大正、昭和の時代において、最先端の夫婦だった。彼らの子、淳之介(小説家)、和子(女優、随筆家)、理恵(詩人、小説家)がそれぞれ芸術の道を歩んだのは当然のことだと思う。吉行の家には花がある。終戦直後、淳之介は田舎の女学校の講師を勤めていたが、数ヶ月で辞めてしまった。間延びした青臭い女学生の顔を、毎日教壇から眺めるのに耐えられなかったらしい。退職に際して、数人の教え子が彼に花束を贈呈したが、彼はそれをわざと学舎に置き忘れた。その後、彼は大学を辞めて、雑誌記者に転じた。処女作『薔薇販売人』を書いたのはその頃のことである1

肺病と作家

1954年に芥川賞を受賞した当時、淳之介は千葉県佐原市の結核療養所 清瀬病院に入院していた。結核菌に侵食された肺の成形手術を受けるためである。吉行淳之介にとって、作家としての出立は、肺病の罹患と無縁ではなかった。彼はそれまで、同人雑誌で小説を書いている頃から、自分の作風、作品を書くペースは、職業作家に向いていないと自覚していたが、状況が彼を雑誌記者から小説家に変貌させた。結核で肺を病んだことにより、普通の勤め人の生活、サラリーマンの生活を継続することが難しくなったのである。死病としての結核に罹患することは、サラリーマンの死を意味した。それは同時に市民生活の終焉も意味したのである。短篇『漂う部屋』には次の挿話が記されている。

投書の主は成形手術を受けた女性である。女性は郷里の町に帰って療養生活を続けることになったので、ある日銭湯に行った。蛇口の前に坐って躰を洗っていると、隣に坐っている中年の夫人がじろじろ彼女の傷痕を眺めていたが、急に身をしりぞけて、

「こんな日に、お風呂へ来るのじゃなかった」

と、大きな声で言った。すると、その声が合図ででもあったかのように、浴場中の人々が一斉に立上って、彼女のまわりにはにわかにガランとした空間ができてしまったそうだ。

湯槽に浸っていた人々までが総立ちになり、どんどん浴場から出て行ってしまい、ついに彼女は一人だけ広い流し場に取り残された、というのである2

たとえ、肚の中では激しい怒りを感じていたとしても、軽妙な文体によって、ごく自然体に書けるところが、彼の文学の真骨頂、その魅力なのであるが(彼が都市生活者であることと無縁ではない)、それ以前も勘付いていたことであるが、死病に罹ることは、私と彼等の生理的相違を際立たせた。この絶望的認識が彼をして娼婦の探求に誘ったのではないか。そして、彼女達の小説を書かせたのではないだろうか。


  1. 植物、特に花は、吉行淳之介の創作のモチーフである。

  2. 吉行淳之介「漂う部屋」『吉行淳之介全集 第1巻』(新潮社、1997年)256頁。