ドヤ街に歌えば 1

泪橋のあしたのジョー

はたして私が山谷に来るのは正しい行為おこないなのだろうか?

私は泪橋に屹立する、あしたのジョーの銅像を前にして、自問自答していた。

南千住の駅を降りると、私は立体交差の歩道橋を越えて、さらに南下した。泪橋1を渡ると、景色がにわかに変化を遂げる。山谷に入ったのだ。狭い路地に〈簡易宿泊所〉〈旅館〉〈ビジネスホテル〉などの看板が立ち並ぶ。取材したくても伝手つてを持たない私は、偶然、GoogleMapで見つけたカトリック教会を訪れることにした。宗派は違えど、同じキリスト教徒だから歓待されるのではないかと思ったからだ。

そこはカトリックではあるが、教会ではなく、修道院であった。神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)という、マザー・テレサが設立した修道会で、マザーが主に召されたあとも、彼女の教えを守り続けている。私が訪れた〈山谷の家〉は男子修道院で、むろん、女性は一人もいない。修道士と聞くと、スカプラリオという一枚布を纏っているイメージがあるが、私が接見した修道士達は、下はジーンズ、上はTシャツにウィンドブレーカーという、質素を通り越して粗末な服装なりをしていた。同会の修道士 広瀬さんに話を伺った。

「オモテの掲示板に、毎週土曜日に炊き出しをやっているとのことですが……」

「ええ。土曜日には白髭橋でカレーライスを配っています。でも、土曜日以外にも、たとえば今日のような平日でも、朝8時半に修道院の前で炊き出しをしています。今日のメニューは五目御飯です」

取材の最中にも来客があり、修道士 高木さんが五目御飯を手渡していた。

五目御飯

「炊き出しはいつ頃から始めたのですか?」

「この修道院は1978年に設立されました。40年以上、山谷の人々に炊き出しをしていることになります。受け取りに来る人は、2/3が生活保護の方、1/3がホームレスの方です。私達はマザー・テレサの教えを忠実に守っています。修道院の建物はコンクリートの打ちっぱなしですが、綺麗に塗装しています。白と水色は彼女のシンボルカラーなのです」

「ありがとうございました。兄弟に主の平和がありますように」

私はカトリックの習慣に倣い、三本の指を合わせて十字を切った。

神の愛の宣教者会 山谷の家

山谷には極端に飲食店が少ない。その代わりに業務スーパーなどには、惣菜、カップ麺などが充実している。この街に住む人々は外に飲みに行くことはせずに、ドヤの中でひっそりと、一人食事を摂っているのではないだろうか。

ようやく一軒の店を見つけた。立ち飲み屋 みづの家だ。

私の他に先客が2人来ていた。いずれも男性である。私は黒ホッピーとコブクロ刺しを頼んだ。

「背がでかいねー。それにその肩幅!」

「ハハハ、働きざかりですから」

「あんた、見ない顔だけど、どこに住んでいるの?」

「小岩です。今日は仕事でこちらに来ました。山谷を調べているんですよ」

カウンターの中央に立ち、酔漢の采配をしているママが言った。「そういう若い人多いよ」

悪意はほとんどないが、その言葉は棘となって私に刺さった。

やがて、隣に女性客が来た。「あなた、介護士をしているの? 私、以前は病院で看護師をしていたのよ。ママ、この子にもう一杯ついであげて。今はね、吉原でソープ嬢をしているの」


  1. 現在は交差点。

ドヤ街に歌えば Prologue

「兼子くん、うちの学生に何か話してみてよ」と、先生に言われたので、政治学、文学などの文献を当たってみたけど、90分間話し続けるほどの分量に纏める自信がない。居直って短歌を書いたが、韻文では講義からはますます遠くなるばかりである。

先生は横浜市野毛に住んでいて、30分くらい歩くと、ドヤ街で有名な寿町がある。先生はそこで本業のかたわら、移民、難民の支援活動をしている。先生は酒屋の角打ちで私と酒を飲みながら、寿町についていろいろなことを教えてくれた。先生のゼミの学生はドヤ1で寝泊りすることが習わしになっているらしい。

寿町を知るための一冊として、まっさきに浮かんだのは、山田清機『寿町のひとびと』(朝日新聞出版、2020年)である。頁を開くと、エピグラフに次の一首が引かれていた。

哀しきは寿町と言ふ地名長者町さへ隣にはあり

すぐにピンときた。ホームレスの歌人 公田耕一の歌だ。彼の歌人としての軌跡は、三山喬『ホームレス歌人のいた冬』(文藝春秋、2013年)に収められているが、私は出版社に勤めていた頃、隣のお姉さんに勧められ、譲って貰ったが、書架に収めたままになっていた。

私は先の二冊を鞄に入れると、書斎を、下宿を出て、クロスバイクに乗った。金町駅を起点にして、南千住駅まで行くのだ。

「寿町については、ノンフィクション・ライターの二氏の他に、政治社会学者の先生も研究している。東京の下町に住んでいる私は山谷に行こう」

私がフリーライターとして初めて取材に出た日のことである。頼りになる理論など持ち合わせていない。そもそも何について書きたいのか自分でも分からない。しかし、自身の五官で直接見、聞き、嗅ぎ、口にし、触れたものを書いてみたい。そのような感覚から、理論が、思想が、哲学が浮かび上がってくるのではないか。

ようやく、らしくなってきた。


  1. 日雇労働者むけの簡易宿泊所。

戦後短歌ルネッサンス

近藤芳美の第一歌集については諸説ある。『早春歌』と言う人もいるし、『埃吹く街』と言う人もいる。発行日は『埃吹く街』の方が早かったようだが、いずれにせよ、私は後者を近藤芳美の処女作として認めたい。作家の本質はその処女作にすべてが表われるという。近藤芳美はこの歌集に、自身の個性のみならず、戦後時代精神ツアイト・ガイストを表現した。その結果、本書は彼を戦後歌壇の寵児たらしめ、以後、彼は『埃吹く街』を念頭に置かずして、新たに作品を詠むことも、歌集を編むことも叶わなくなった。作品は作家を代表する。『埃吹く街』は近藤芳美の代表作である。

いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ

巻頭一首。青年(近藤芳美)は、戦前のファシズム、軍国主義の時代と訣別する。戦後、それらに替わるイデオロギーは民主主義、平和主義なのかもしれないが、それについては言明していない。いずれにせよ、青年にとって困難な時代は続く。

さながらに焼けしトラツク寄り合ひて汀のごときあらき時雨よ

焼跡は軍政の統治下でも、それからの解放軍GHQの統制下でも変わらず見られた光景だった。かつて東京の焼跡に黒い雨が降った。その後、白い雨、すなわち時雨に変わったが、雨は雨である。

一人うつヴィタミン注射ひえびえと畳にたるる夜ふかくして

夜おそく腿に注射をうちて居る妻のうしろに吾は立ちたり

医者と看護師に頼ることなく、自分で注射を打つことができた時代。否、打つことを余儀なくなれた時代。ヒロポンを打つか、あるいはビタミンを打つか。当人たちの意識に本質的な差はなかったのではないか。

灰皿に残る彼らの吸殻を三人は吸う唯だまりつつ

かたへにて吾の煙草に咳きて居し妻の寝入りて冴えし夜となる

故障せる電車の床にかがまりて煙草を吸へりたれも醜く

近藤芳美の〈著者近影〉として、紙巻を吸っている写真が何点か残っている。愛煙家、少なくとも煙草は好きだったのではないか。本集にも、煙草にまつわる佳首が何首もある。各人がシケモクを拾い集めて、辞書の紙を破り、紙巻煙草を作った時代だった。『埃吹く街』の人々はよく煙草を吸った。一服しなければ、過酷な人生を乗り切ることができなかったのだ。

降り出せば明るくなりし夜の街軒をつたひて吾らは帰る

霧雨に吾らは濡れて帰り行く立場があれば君いさぎよく

にえ切らぬ口の表情昼来れば髪乱れつつ銀座をあゆむ

『埃吹く街』にはしばし雨が降る。雨は生活の厳しさの象徴であると同時に、青年達の出立を祝福しているのだ。雨に洗われた銀座の街は美しい。巷の埃、世界の夾雑物を洗い流してくれるからだろう。事物が鮮やかに見える。視界が一気に開かれるのだ。

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

短歌結社『未来』の創設/創刊を予感している。本誌が以後の近藤芳美の創作活動の拠点になったとすれば、本首を収録している『埃吹く街』はやはり、彼の代表作と言っても過言ではないだろう。優れた作品は、一過性に終始しないで、作家の未来の展望を拓くのだ。

にぶき音くもりの下にひびく夜をささやく如き声街にあり

不安と恐怖は『埃吹く街』に棲息している。戦後に生きる私達は、絶えずその影に怯えながら、抗いながら、創作し続けるしかないのだ。戦後の都会詠として、『埃吹く街』は短歌史、文学史に永遠に記録された。戦後が再び現象している今、省みられるべき歌集である。

事物と情緒

「タバコの時間だな」

以前、煙草屋に勤めていた友達の紹介で、BOHEM CIGAR NO.6(Tar:6mg, Nicotine:0.6mg)を試してみた。

外箱に"containing 30% of fine cigar leaf"と書かれている。葉巻の葉を30%含んでいるそうだ。確かに、軽いのに芳醇である。「淫蕩」と言ってもいいくらいだ。葉巻シガーの喫味に一脈通じるものがある。珍しいタバコなので、コンビニ、煙草屋になかなか置いてないが、レギュラーの"CIGAR"とともに、メンソールの"mojito"も香り高い。"The rich taste & aroma of distinctive tabacco"の謳い文句は伊達じゃない。愛煙家にはぜひ試してほしい銘柄である。

机の抽斗から数種類のシガレットを取り出す。それから立て続けに喫う。普段、私は煙草を1日2本喫う。まったく口にしない日もあるが、たまには本腰を据えて喫いたい時がある。一度、火を着けたら20分以上楽しむ、パイプを喫っている感覚に近いのだと思う。先日、とある酒場で私がパイプを吹かしていたら、「あれはポーズだ。なんだか鼻につく」と言った輩が居たが、ポーズでも、スタイルでも、何でも結構だが、人は自分に合った調度と習慣を身に着けるのであり、それはやがて一過性の流行モードを超えて、その人の個性を形作るのである。志向/嗜好は先験的アプリオリな要素が強い。こればかりは如何ともしがたいのである。

煙草の話はこれぐらい。読者を十分ケムに巻いたので、次は短歌について書く。

短歌は私にとって、どうして重要な詩形なのだろう。私が短歌に執着するのはなぜか。——短歌を書く時、私は自由になれる。これが最もシンプルな回答だろう。きざな言い方をすれば、私は短歌という詩形に安らいでいる。小説よりも坐りがいいのは間違いないだろう。その理由を少し考えてみた。

私の短歌の師匠の一人である、三井修先生は「短歌は説明するのではない。描写するんだ」と言った。たとえば、こんな一首ができる。

悪場所の酒を飲みたる暁に雨に打たるる陋屋に帰す

所謂、写生である。その意味で客観的な描写を心がけているが、初句に「悪場所」と書かれているように、私の主観が投影されている。事物リアルの中に情緒センチメントを織り込むことができる。そこが私が短歌に居心地のよさを感じる理由の一つである。

しかし、短歌は写生/描写ばかりが能ではない。時にはこんな、観念的な思想詩が書けるのである。

空蝉うつせみが我に信実求むれど我は汝の道に叛きつ

吾ながら自我エゴが強い。けれども、短歌は俳句と比べて、その調べの長さのゆえに、主義主張、もう少し高尚に言えば、思想を表現することができるのである。その意味で、短歌は箴言アフォリズムに近づく。私は歌人である以上に政治哲学者なので、短歌のこの器の広さに負うところが大きい。南原繁が短歌に一方ならぬ情熱を傾けた理由が分かり始めた。凡夫である私に、表現することの楽しみ、苦しみ、そして、それを補って余りある自由を教えてくれた短歌という詩形に私は感謝している。

BOHEM CIGAR NO.6

政治文学と基督教文学

市川聖マリヤ教会の聖餐式に参列した。立教大学の礼拝堂チャペルは、新型コロナの感染防止のために予約制を敷いているので、まだ気軽に足を運ぶことができない。その代わりと言っては恐縮だが、地元の教会に積極的に足を運ぶようにしている。大学のチャペルと地元の教会では信徒の層が明らかに違う。前者は在校生および卒業生とその家族が中心だが、後者はおよそ学歴とは無関係な地元の住民が中心である。都市的=市民的教会と村落的=住民的教会くらいの違いがある。現金なことを言ってしまえば、前者の方が所得と収入は高いだろう。政治学徒はついこんなことを考えてしまう、業が深い人間である。しかし、私は母校のチャペルと同じくらい、地元の信心深い人々が集まる教会が好きである。自身のルーツを確認することと、素朴な敬虔な気持ちになることは繋がっているのである。

恩寵(Gnade, Grace)の概念を手がかりに、文学と政治学を切り結ぶことができないか考えている。政治文学と基督教文学の可能性である。社会派と浪漫派は矛盾しない。両者は全体小説として構築することが可能なのではないか。トーマス・マン『ファウストゥス博士』とシェルドン・ウォーリン『政治とヴィジョン』を読み返している。創作ではなく、試論として、今月中には完成を見たい。

われわれは、キリスト教と政治との対抗についてこれまで述べてきたことを、つぎのように要約できるであろう。すなわち、キリスト教の学識は、政治思想の伝統を抹殺するどころか、それに再び活力をあたえたのである——恩寵は政治の学を亡ぼすことなく、むしろそれを完成する1


  1. シェルドン・S・ウォーリン(尾形典男、福田歓一、佐々木武、有賀弘、佐々木毅、半澤孝麿、田中治男/訳)『政治とヴィジョン』(福村出版、2007年)158頁。

微睡の後に

睡眠不足である。この1ヶ月くらい、約3時間睡眠で稼働している。布団に入ると寝落ちしてしまうので、入眠は問題ないが、夜半、目を覚ましてしまうのである。その後は夢うつつ微睡んでいる。中途覚醒である。

先日、躁鬱病の基本薬である抗精神病薬が無くなりそうだったので、半年ぶりに精神科を受診した。私が不眠を訴えると、先生は「依存性の少ない、マイルドな睡眠薬を処方しましょう」と、デエビゴ 6mgを頓用として処方してくれた。これで万事解決かと思いきや、私は今日に至るまで、この薬剤を服用していない。睡眠薬と酒の飲み合わせを忌避しているからだ。それなら、酒を飲むのを控えればいいではないかということになるが、それでは酒屋が卸さない。夜のウイスキー・タイムは私の生活の一部になっているし、社交と飲酒は私の人生に欠くべからざるものである。では、私に睡眠薬は不要なのだろうか? 否。週1、2回は休肝日を設けて、その夜に睡眠薬を服用すればいいだろう。長く、深く眠ることで、心身を休息できることを期待している。人生に平和は少ないのだ。これからも錠剤タブレットを護符にして生きる日々が続きそうである。

今日の昼下がり、金町駅前の太陽堂書店から、注文した本3点を入荷したと電話を受ける。実は今月頭に、図書館の『吉行淳之介全集 第2巻』の頁にコーヒーをこぼしてしまい、弁償に相なったのだ。上記の本はすでに絶版になっているので、図書館から違う本の購入を指示された。とまれ、図書館の全集に穴を空けてしまったことは心苦しいが、汚損した本をこちらで引き取ることができる。『全集 第2巻』には「鳥獣虫魚」が収録されている。これは名作、思い出深い短編である。結果として、私の手元に残ることになったのも、何かの縁だと思いたい。

さ、筋トレして目を覚まして、自転車に乗って金町まで行きますか。

A Empty Holiday

何の予定もない休日。幾日ぶりだろうか。外出は近所の自動販売機でペプシ・コーラを買うことと、最寄の郵便局にハガキを出すことくらいである。

『朝日新聞』誌上の「朝日歌壇」に投稿した。官製ハガキに万年筆で清書すると、厳粛な、清々しい気分になる。新聞歌壇の当選、落選に一々一喜一憂しないけれど、私は『朝日新聞』『東京新聞』『日本経済新聞』の三紙を購読しているので、読者のよしみで、気が向いた時に投稿したい。新聞歌壇といえど、選者に作品を見い出された時、茫漠たる宇宙の中の一抹の理解者に掬われた気持ちになる。この経験は大切である。

とはいえ、新聞歌壇は総じて程度が低い。低俗である。修辞レトリックは稚拙だし、内容も毒にも薬にもならないものが多い。一般市民のレベルはこの位のものなのかと痛感させられる。100年前のアマチュア歌人達の方が遥かに水準が高かったのではないか。文化ないし文学に関して言えば、日本人は進歩していない。むしろ退化していると思わざるをえない。文化の起源は耕作と筆耕にある。文字が文化を作るのだ。ゆえに、文化は厳しい修練の産物である。閑話休題——。甘い所はあったが、新聞歌壇に比べれば、私が以前所属していた結社誌『塔』の方が遥かに水準が高かった。結社ソサイエティが独自の文化カルチャーを形成することも納得させられる。けれども、私は『塔』には、結社には戻らない。たくさんの人々が非才の私に目を掛けてくれたにもかかわらず。新聞歌壇で腕試しをしたら、総合誌『短歌』『短歌研究』などで、連作を発表するように努力するしかないだろう。これでも一応、フリーライターなのだ。私の中にはやみがたい無教会派の気質がある。

南原繁『政治哲学序説』を読む。この人は政治学者/政治哲学者だけど、レフ・トルストイや、ステファン・ゲオルゲの思想を、政治思想/政治哲学として真面目に検討するなど、文学に対し、関心と造詣が深いのである。南原には、一般に文学など、政治現象として見なされない文化事象に対し、政治の萌芽を見つけ出す眼力がある。しかもそれが、現代の社会理論、文芸理論を学習した連中よりも、遥かに自然にできるのである。戦前の大正教養主義の只中で知的形成を遂げた人々の凄さはこの辺にある。

近代短歌は発展と衰退の途上にある。私は現代短歌の口語的、日常的表現に馴染みきることができない。頽落した日常生活の虚偽の意識を、芸術の真実の世界に持ち込むことは許されない。私は戦前/戦中/戦後に回帰したい。次は近藤芳美に移ろう。