政治学 vs 社会学

山谷のルポルタージュのタイトルが決まる。『山谷の宗教社会:キリスト教徒の炊き出しの論理』。この作品は私の初めての社会学的研究になるだろう。ちなみに、大学院生の頃に書いた『青踏』の論文は文学研究だった(そう思うと、私は政治学の研究を一度もしていないことになる)。

国家の権力から相対的に独立している、教会、組合、会社、結社などの社会の諸集団を研究することは、一般的に社会学の範疇に属する。一方、国家権力を含む、国家を頂点とする政治社会を研究するのは、伝統的に政治学と呼ばれる。私は一応、後者の政治学を研究してきたつもりだが、権力機構としての国家、権力闘争を行う政党など、大文字の、本当の意味の政治学については無知蒙昧だったということになる。私の学生の頃は、所謂ポストモダンの影響で、文化や社会に通底する微細な権力を研究することが流行していた。私の文学趣味もそれに拍車をかけた。しかし、その流れを推し進めると、文学、社会学の研究とけじめがつかなくなり、政治学の存在理由レーゾンデートルが掘り崩されることになる。戦後、政治学が社会科学の雄(戦闘的なので華ではない)になったことと、高度経済成長を経て、衰退していく様はこの辺の事情と無関係ではない。政治学が復興するためには、人間、その現実態としての国民を支配し、統合するのは国家において如くはなく、国民の生死を左右するのもまた国家であるという、鋭い、リアルな認識を持つことである。政治学は偉大な学問である。

今回の山谷の研究を通して、私は教会に象徴される社会を認識することだろう1。その理想は権力の不在、すなわち永遠の平和である2。社会学の研究に着手することで、私はようやく政治学の本質が見えるようになった。山谷は必ずしも愉快な街ではない。しかし、その契機を与えてくれたことで、私はこの街に感謝している。


  1. 組合、NPO法人などの結社は今回は割愛する。

  2. ただし、キリスト教徒は権威を承認している。

天皇制の憂鬱

私は護憲派ではない。日本国憲法の第9条は改正して、自衛隊は戦力として認めるべきだと思うし、そもそも第1条の天皇制は廃止して、日本は共和制に移行すべきだと思っている。

しかし、こんな政治的志向を持つ人間は、現代の日本において容易に受け容れられない。

改憲派だからといって、自公政権を推すつもりは毛頭ないし、野党に投票するのもためらわれる。

そもそもこの国は政党から国民にかけて、一億総天皇主義者、否、むしろ、なんとなく天皇制を擁護しているに過ぎないのであって、思想、イデオロギーとしてハッキリしている訳ではない。

そもそも天皇は、戦前、戦時の主権者としての責任はGHQによっていっさい罷免され、その代わり、A級、B級、C級戦犯が処刑、処罰されることによって、のうのうと生きながらえている。戦後の象徴天皇制は、かつての臣民、現在の国民の人身御供のもとに成り立っている。かつて、政治学者の丸山眞男は『超国家主義の論理と真理』で、日本の政治社会の「無責任の体系」を論じたが、その最たるものは天皇であり、天皇はその象徴である。

戦前の共産党は完全な人民主権を求めて、天皇制打倒を掲げていたのに、戦後、日本社会の日和見に流され、転向して、天皇制を擁護するようになってしまった。

支持政党なし。これが私の現代の日本政治に対するスタンスであり、自然、私の政治参加は政党政治から逸れることになる。私がキリスト教に改宗したり、山谷の炊き出しに参加しているのは、国家主権をめぐる通常の政治参加の道を忌避していることの代償である。

私の仕舞支度

8月1日をもって、私は千葉県松戸市の有料老人ホームから、足立区伊興の特別養護老人ホームに異動する。読者諸氏はお分かりだと思うが、1年数ヶ月前に私は真逆のことを書いている。体よく言えば元の鞘に収まるということだが、その間、訪問介護を始めたりなどと、裏を返せば腰が定まらない、落ち着かない生活をしている。10月に入る頃には、勤め先を特養一本に絞って、今よりももう少し安定させたいが、総合職(正社員)には戻るつもりは毛頭ない。もう夜勤はやらない。私にも譲れないものがあるのだ。

今の有料老人ホームの同僚と働ける期間は1ヶ月を切った。その間、私は仕事で、会話で、視線で、自分と関係を切り結んだ人々との関係(間柄)を定義することに努めている。その人の人格、性格を定義することは案外やさしいが、一方、関係を定義することは関係を構築することを伴うので、けっこう難しい。認識と行為が同時に働いているからだ。畢竟、それは自分の住まう社会を理解し、それを作ることに繋がる。

今の職場で働ける日々が1ヶ月を切った。学生の頃、就活に失敗した私は「*活」という言葉が嫌いだが、現在、私のしていることは終活そのものである。

韻文と散文 歌人と文人

今日は短歌を何首かリライトした。単語を切ったり貼ったり、入れ替えたりすることで、ようやく自分が納得できる一首ができるのが短歌の魅力だ。これは散文にはない、韻文だけに許された楽しみで、小説や随筆の推敲の仕方とは全然違うだろう。散文は「ええい、ままよ」と、時間の制約上、適当な所で妥協するが、韻文は心ゆくまで延々と直し続ける。散文は言葉と言葉のあいだに余裕(遊び)を持たせるが、韻文は言葉と言葉を緊密に連携させる。短歌を書くように小説を書くと、息が詰まる、大変読みにくい文章になる。くれぐれも履き違えませんように。

このブログを書き始めた当初、会社の後輩に「兼子さんは詩句よりも文章の人ですよね」と言われた。その時はもっともな指摘に思われたが、当時の私は短歌を放擲していたのであり、介護労働の辛い現実から逃げ出したい一心で文章を書いていたので、私の能力が全的に解放されていたかは杳として分からない。しかし、才能というものは本人の意志、好悪とは無関係に存在するもので、それに気づいた時は素直に認めるしかない。一言で言うと、短歌は私のネチネチした心情に適っていたのである。

しかしである。自分の行為ではなく、存在を定義する段になると、私は歌人ポエットではなく、文人ライターなのではないかと思う。さきほど、私は文よりも歌の人ではないか、と言った。畢竟、その人は何者かという判断はひとえにその人の行為によって測られる。されば、私は歌人ではないか。

たぶん、私が文人ないし文士に憧れるのは、その存在様式こそが、私の才能を全的に発揮できると期待しているからだろう。歌人に大切なのは学よりも心であるが、一方、文人はよく学問をすることが求められる。これは私の資質に適っているように思われる。私は学者っぽい。学問をしている。これは否定しがたい事実である。

そろそろ政治学に加えて、社会学を勉強したいものだ。

情報活動

勤務先の職場でホール業務をしていると、普段、何かと気にかけてくださる看護師の方が、新聞記事の切り抜きスクラップを手渡してくれた。

www.asahi.com

「介護ライターって、あなたのことじゃないの。兼子くんも早く立派になって、こういう所に書けるといいわね」

6月8日付の『朝日新聞』の記事。約1ヶ月前の記事をどのようにして発掘してくれたのか疑問に思ったが、私が山谷に通い始めたのは5月25日。もしかすると、その頃から意識して新聞、雑誌などの媒体に目を通されていたのかもしれない。——おそらく、私以上に。「本当に気にかけてくれていたんだ」と思うと、人一倍、孤独を感じやすい私は感謝の念に堪えられなかった1

ルポを書く。短歌を書く。政治学を研究する。何らかの活動をしていると、本人が予期せぬ以上に、あるいは本人の実力と努力を遥かに越えて、情報が集まることがある。それは一瞬、偶然のように見えるが、のちに冷静になって考えると、実は必然の糸で結び付けられているのかもしれない。人は真理を手繰り寄せるのだ。

人間は本質的に孤独である。けれども、孤独は活動の契機であり、活動は孤独を保ちつつ、それを超えるのである。深夜、煙草をふかしながら、一片の切り抜きスクラップを片手に、そんなことを考えていた。


  1. これは私の弱さであると同時に強さでもあるのだろう。

ルビぞ愛しき

辻邦生という小説家がいる。私はこの人から文体について多くのことを学んだ。特に彼のルビ遊びはおそらく文学史上類を見ないものである。『西行花伝』では、森羅万象いきとしいけるもの実在感たしかさのように読者に読ませる。かなしさ、という読み方も、私は彼から学んだ。この「かなしみ」について、詩人、批評家の若松英輔は次のように指摘している。

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、いつくしむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っているというのである1

若松英輔に及ぶべくもないが、それでも私は彼と多くの資質を共有している。キリスト者であり、批評家であり、詩人であるということである。悲哀、挫折、敗北のような一見、負の感情、負の出来事にも、積極的な意義を見出す所も似ている。評論を書く際の文章、詩句の引用の仕方まで似ている。昔なじみの友人に邂逅した時のような、親しく、優しい気持になるのだが、それがかえって重苦しくなる時があるので、遠ざけたくなることもある。しかし、彼の直線的ではない、ある意味早熟ではない文筆家としての履歴も私の励みになるだろう。「病がなければ、こうして言葉をつむぐ仕事に就くこともなかっただろう2」。私は半年前、社会福祉法人の正社員の椅子から降りた。要するに出世コースから外れた訳だが、次の言葉にも頷くしかなかった。

12年間の会社勤めで、もっとも重要な出来事は降格である。昇格ではなかった。大切なものの多くは、降格を機に経験した3

私達の好きはリルケは歌った。「落ち降るさちがあるのを知る時に」。


  1. 若松英輔『悲しみの秘義』(文春文庫、2019年)13頁。

  2. 同上、76頁。

  3. 同上、113頁。

地獄の一丁目を歩く

「俳句を詠むためには地獄を通過しなければならない」誰かが語った言葉だが、俳句を素人としてではなく、玄人として極めようとすると、その先には魔道が潜んでいるらしい。この感覚は私のようなアマチュアの権化のように見られている人間でもそこはかとなく分かる。私は松尾芭蕉には暗いが、晩年の飯田龍太は修羅の形相をしていた。地獄を見据えているようであった。そのためにその御作が共通感覚コモンセンスから逸れることがしばしばあった。俳句を真剣に取り組んだ人にしか分からない、痛ましい生き様だった。

俳句に限らず、短歌、小説で凄い作品を書く人は、一見、非の打ちどころのない紳士、淑女である場合が多い。この人がこんな凄い作品を書くのか。たとえば、北杜夫が倉橋由美子に抱いた感想がそうだった。すべての作家が鷹の眼をしているとは限らない。しかし、その内面生活は窺い知れないのだ。

「小説家は血を流していますよ」私が昔勤めていた出版社の社長は折に触れて言った。「詩と小説は革命が起きるでしょう。俳句と短歌にそれが出来るかね?」彼は短詩形文学の可能性には懐疑的だったようだが(それを生業にしたために、いささか食傷気味になってしまったのかもしれない)、社長の金で酒を飲み、焼鳥を食らう、まだ世間と人生の深奥を知らない26歳の私は戦慄したものだった。血を吐くような思いをしなければ、瑕ものにならなければ文学はできないのか。

海の傷もたぬものなし桜貝1

あれから10年が経つ。小説はまだ書けないけれど、当時に比べれば、韻文、散文は書けるようになった。自分の文体スタイルも会得しつつある。トーマス・マンの小説『ファウストス博士』の主人公、作曲家 アドリアン・レーヴァーキュンは言った。「熱くもなく、冷たくもないことは唾棄すべきことだ。僕は生ぬるい人間にはなりたくない2」その草稿を読んだ或る作家は「この男は地獄を見るな」という感想を抱いた。私はどうだろう。ようやく短歌を書けるようになった。しかし、小説はまだ書けないではないか。「社長、私は血を流していますか?」


  1. 檜紀代の作。

  2. 『ヨハネの黙示録』のオマージュである。