なんとなく気分が晴れない、疲れて何もやる気がしない、そんな時、私はウイスキーを飲む。
酒、煙草、珈琲、茶、——あらゆる嗜好品に私は親和性があるのだが、左記の二者は大人になってから覚えたものである。それは単に
酒は幼少の頃より父から英才教育を受けていたが、私がみずから進んで酒瓶に手を伸ばしたのは、二十代の半ばに不眠症(その実は躁鬱病)に悩まされてからのことだった。求めよ、さらば与えられん。それ以後、私と酒の蜜月の関係、あるいは危険な関係は今でも続いている。
煙草は出版社の
料理に
なんとなく気分が晴れない、疲れて何もやる気がしない、そんな時、私はウイスキーを飲む。
酒、煙草、珈琲、茶、——あらゆる嗜好品に私は親和性があるのだが、左記の二者は大人になってから覚えたものである。それは単に
酒は幼少の頃より父から英才教育を受けていたが、私がみずから進んで酒瓶に手を伸ばしたのは、二十代の半ばに不眠症(その実は躁鬱病)に悩まされてからのことだった。求めよ、さらば与えられん。それ以後、私と酒の蜜月の関係、あるいは危険な関係は今でも続いている。
煙草は出版社の
料理に
「出戻り、おめでとう!」
遅番の仕事終わりに、宮崎さんと会社近くのコンビニで乾杯した。私はビール、宮崎さんは第三のビールを片手に、柿の種をおつまみにした。
「君のこと待っていたんだよ。訪問介護もやっているんだって。やっぱり、君はアグレッシブだな」宮崎さんは破顔の笑顔を見せて言った。「あと、ライターもやっています。今、山谷を取材しているんですよ。なかなか上手くいかないですけどね」私は駐車場のフェンスに腰かけて言った。私は体力に余裕があるとはいえ、お互い肉体労働の後で疲れていた。「あそこに坐ろうよ」宮崎さんはバックヤードの一角を指差して言った。「あそこが僕達の定位置じゃないか」
宮崎さんは夜勤以外のすべての勤務をこなす、私と同じ
私達の話題は自然と仕事の事、介護の事になった。「**に戻って来て驚きました。昔よりも露骨に虐待の噂を耳にします」早々私は穏やかならぬことを口にした。「私も一人で夜勤をしていたことがあるから分かります。夜、眠らない老人を何度もベッドに転がしました。悪いことをいっぱいしました。介護に限ったことではありません。前職の出版でもそうです。仕事をすればするほど罪を重ねる。私はそれに疲れてキリスト教徒になったんです。もう、みずから進んで悪を為す必要はないんです」宮崎さんのお父上は無教会派のキリスト教徒だと知っていたので、かなり踏み込んだことを話した。「昼間だと人(職員)が多いから、ぐっと我慢できるけど、夜になると寝不足で神経が苛立っているし危ないよな」宮崎さんは残り少なくなった缶ビールを飲み干して言った。「だからと言って、老人を敢えて殴る人の心理を私は理解しかねます。多分、その人は自分の
「宮崎さん、もう一杯やりましょうよ。次はもう少し明るい話をしませんか」私達は重い腰を上げると、ガラス越しに店内の蛍光灯に照らされながら、再びコンビニに足を運んだ。
下層社会の定義を求めて、いろいろな書籍を漁っているけど、未だに厳密な定義が見つからない。そもそも横山源之助が『日本の下層社会』(1899年)を執筆した頃から、その概念は曖昧模糊とした、センセーショナルな極めてジャーナリスティックな概念だった。もとより社会科学は動的な現実を定義するために、究極的には観察者の主観に依存せざるをえないけれども1、「上層」「下層」という表現は、あまりに観察者の価値判断に頼りすぎだと思う。新聞、雑誌、新書の類、すなわちジャーナリズムでは流通できでも、厳密な定義が要求されるアカデミズムでは使用に耐えないのではないか。そもそも「下層社会」という表現を使うこと自体に何か後ろめたいものを感じる。
それでも、横山源之助の生きた頃から下層社会は存在したはずで、彼は先の著作の中で、それに含まれる「芸人社会」という言葉も使っている。日本という国家の下に、複数の社会が存在することを理性と感性の両方において看取していた訳だ。「市民社会(bürgerliche Gesellschaft)」という言葉は、佐野学のマルクス『経済学批判』の翻訳(1923年)で初めて使われたが、それ以前に幸徳秋水と堺利彦が『共産党宣言』の翻訳(1904)年で、「紳士社会(bourgeois society)」と訳している2。事物の概念は、思想家が抽象的、恣意的に発案するのではない。現実との格闘の末にようやく掴むものなのだ。「紳士社会」という言葉も、明治の日本社会の中では極めてリアリティがあったのだろう。社会の分断は当時から深刻だったのである。
『山谷の基督』は死して復活した。企画は無事に生きている。「急がなくていいですよ」と言われたけれども、今月、今年は本腰を入れて研究すること。あるいは来年、再来年の発表になるかもしれないが、諦めずに完成させよ。
ゼミで報告した草稿をもとに、原稿をキリスト教系の出版社に持ち込みたい。開高健文学賞は純粋なルポルタージュを要求しているので、一から別の作品を書いた方がいいだろう。『山谷の基督』はルポなので文学に違いないのだが、理論を重視しているので、基本的に政治学の作品になるだろう。叙事ではなく、理論でなければ考えられないこと、伝えられないことがあるのだ。
「
汝らは既に舊き人とその行為とを脱ぎて、新しき人を著たればなり1。
『山谷の基督社会』のゼミでの報告が危ぶまれ始めた。確かに現在の私の実力では、学会報告に相応しい、仮説-実証-結論のような、科学的調査は望むべくもないが、粗削りながらも修道院という市民社会の規範から逸れた組織を素描できると自負していた。私はけっして好んで、山谷という貧困地域を取材したいのではない。
このまま『山谷の基督社会』を水子にする訳にはいかないので、たとえ、ゼミでの報告が叶わなくなったとしても、最後まで書き上げて、その完成を見届けたい。カトリック系の『福音と社会』、新教系の『福音と世界』の編集部に原稿を持ち込むのもいいだろう。開高健ノンフィクション賞に応募することも辞さない。私にも
昨夜は突然の雷雨に叩き起こされたので、安心して眠ることができなかった。
そもそもよく眠れないのは今に限った話ではない。今年の1月に躁鬱病の基本薬をアリピプラゾール(エビリファイ)に切り替えてからは、ぐっすり眠れたことがほとんどない。入眠して3時間くらい経つと目が醒めてしまう。この薬は抗鬱作用が強いので、その分、覚醒を促してしまうのかもしれない。しかし、そのために痼疾となっていた抑鬱が改善され、私は今、慢性的な軽躁状態で生活している。ときどき過度の浪費、散財をしてしまうという副作用があるが、総体的な活動時間は増えているから良しとするか。三十代の働きざかりに相応しい処方だ。
病気の自慢はこれくらいにして、そろそろ
老人ホームの勤務は真面目に果たしている。私は福祉の仕事は良心的に、使命感をもってやっているつもりだが、早くも同僚に対して不満を抱き始めた。仕事の不満を
私は夜勤を除けば、身体を動かして人のお世話をする介護の仕事は嫌いではないのだが1、いまいち環境に馴染みきれないのである。それは給与のことでもあるし、人材のことでもある。介護の職場で私と話が合う人は皆無に等しい。年長の人は同情と慈悲によって、年少の人は憧憬と好奇心によって、私と付き合ってくれるが、今、私が本当に必要としているのは、同年代の同性の同僚である。仕事と人生について本当に語り合える
この3年間、世間からの孤立と無理解によく堪えたと思う。矛盾しているが、それは良心ある人々の善意と、私の自己を恃みにする力の功徳である。私は収容所群島で独自の進化を遂げた。出版社などの情報産業に勤める人達とは違うかたちで、自身の作家としての資質を涵養することに努めた。書かない人/書けない人は書く人に成長した。その点、この3年間は私の人生にとって意義深い時期だった。持病の躁鬱病もほぼ寛解した。私は勇気と健康を取り戻した。——鉄の檻を出る時機が来たのだ。
とはいえ、積極的に好きな訳ではないのだが、人は嫌いでなければ、その仕事に適性ありと見ていいだろう。↩
『山谷の
ルポに理論なんか要らないじゃないか、と思われるかもしれないが、それには相当の理由がある。
まず、私は本質的に思想好き、理論好きである。感じたこと、考えたことを思想ないし理論まで昇華させないと気が済まないのである。昨日、この点について、ヴァイオリニストと議論したのだが、私の理論偏重は、他人を知識で圧倒したい、権力欲の一種である、それはすなわち、己の自信のなさの裏返しである、と指摘を受けた1。それは正しい。しかも、なお悪いことに、私の理性偏重の傾向は私の感性を犠牲にしているかもしれないのだ。
意外に思われるかもしれないが、私は学生の頃から感性の人と見られていた。「君は感覚は鋭い。しかし、努力が足りない」と先生に言われた。私にも創作の経験があるから分かるが、感性(感覚)だけでは作品を完成させることはできないのである。なんとなく理解している状態から、確固たる確信に変わらなければ、創作活動全体を支えきることはできないのである。感性の人は幼児に似ている。それは幾多の経験を経て、理性の人すなわち大人に成長しなければならないのだ。……と、大上段に構えて言ったが、結局、学者と芸術家は理性と感性を絶えず往還することを宿命づけられているのだろう。思えば、私は酒を飲むことで、理性を鈍麻させる替わりに感性を鋭敏にしてきたような気がする。酒飲みの自己弁護。
「汝自身を知れ」哲学者 ソクラテスの格言だが、経験を思想にまで錬磨していくと分かるもう一つのことがある。それは「汝の敵を知れ」である。プラトンからニーチェ、マルクス、アレントに至るまで、哲学と哲学者の歴史はその敵を見出し、打倒することであった。勝敗はいつも決まっていた。俗人は勝利し、哲学者は発狂ないし憤死した。しかし、それでも哲学者は考えることを止めなかった。その点、哲学は権力の意志そのものであることは正しい。
私の敵——それは市民社会とそこに住む市民である。彼等は私を苦しめ私を助けた。ゆえに私は彼等に対し愛憎という二律背反の感情を抱いてきた。私が『山谷の基督社会』を書く理由は、そこにローマの市民権を剥奪され、迫害されてきた原始キリスト教徒の姿を見るからである。本来、キリスト教徒は市民ではない。
ちょっと過激なことを書いてしまった気がするが、これぐらい意識を先鋭化させなければ物書きとして大成できないと思う。ボンヤリ生きていたら、時代と世間に流されてしまう。書くことは戦うことだ。書いていると元気になるのはこのためである。
指摘、という鋭いものではなく、もともと自覚していたことを言語化した感じである。有意義な反省の過程であった。↩