芸術と涜神

小説を書いている。今は大量に書いて、このブログにも習作をばんばんアップしなければならないが、やはり、虚構フィクションを捏造するというのは、精神に独特の負荷がかかるらしく、小説だけでは毎日更新ができないのが現状である。

作家クリエーターとその創造クリエーションについて考える。最近、noteなどでは「クリエーター」と言われているが、いったい誰のことだろう。その人の業はどのようなものなのだろうか。

作家は研究者と違い、みずから作品を作り出す人のことである。こんなことを言うと研究者に怒られてしまいそうだし、研究者にしても、数学者など、独自にして普遍的な理論を大胆に創造している人がいるのも知っているが、それでも作家と研究者は違うのである。作家とその作品には個性が求められる。この世界に新しい人がやってきた、と人々に思わしめなければならない。作家とは個性的な作品を創造する人なのである。

しかし、その創造とはいったいどういう類の行為なのだろうか。創造とは神学的にみれば、無から有を作り出す、神のみに許された行為である。神の被造物たる人は有から有を作り出しているに過ぎない。しかし、作家は創造するのである。彼/彼女は無から有を作り出す。神の業を人が行うのである。それは涜神的な行為である。芸術家は人の限界を踏み越えて、神に近づこうとする人のことである。

しかし、私たち芸術家は本当に無から有を作り出すことができるのだろうか。小説を書いてみると分かることだが、非常に経験に負っているのである。私の小説があまりに私的だから、そう思えるのかもしれない。しかし、どんなに緻密に構築された虚構でも、世界にすでに存在する想像イメージを借用しているのである。もう一度問う。人は本当に創造することができるのだろうか。もしかすると、芸術家はもはや人ではないのかもしれない。良くも悪くも人の道を踏み外した存在ではないだろうか。

創造することの恐れと望みを、私は小説を書きながら確認したい。

RoutineWork

年末調整をしなければならない。しかし、いっこうにやる気が起きなかったので、ビールを飲みながら片づけた。こんな調子では年度末の確定申告が思いやられる。個人事業主としては完全に赤字である。収入のほとんどを給与所得に頼っている。最近、酒に頼りすぎているのではないか。

はてなブログのコメントとスターを再開した。一時期、匿名の心ないコメントがあり、それに心を痛めていたが、試行錯誤の末、勇気をもってコメント欄を一般に公開することにした。先日、13代目を襲名した市川團十郎は「清濁併せ呑む」ことが芸事を生業とする人の覚悟であると語った。水清ければ魚棲まず。芸術家とその仕事は、毀誉褒貶の様々な言説に曝されて、成長、発展するのだろう。文学も同じだと思う。

株式投資を始めたい、という思いがにわかに強くなる。投資、と先に書いたが、経済学的に言えば、銀行券を株券に替えるだけなので、貯蓄の一形態に過ぎない。なんら特別なことではない。そのために安定した収入を確保すること。酒に溺れている場合ではない。

ブログで稼ぐ

ブログに再び広告を掲載した。フッタにまとめて並べているので、そこを参照されたし。

広告は以前も貼り付けていたのだが、Amazonアソシエイト以外は1円にもならないので、やめてしまった。私が今までブログで稼いだのは、100円未満のほんの雀の涙である。現状では、はてなブログの利用料とドメイン使用料すら回収できない。情けなくて、ほんとうに涙が落ちそうである。

しかし、私はここで奮起する。ブログの収益化を再び目指そうと思う。この心境の変化は何か? 私がブログを含めて、書くことに真剣になり始めたからである。一所懸命という言葉の意味がようやく分かるようになったのである。

ブログには中毒性がある。アクセス数に一喜一憂し、このために私は頻繁に電子計算機コンピューター携帯電話セルフォンなどの端末でチェックしている。愚かなことをしていると思う。しかし、それくらい私はブログというメディアに執着しているのだ。

我等の情熱を何に生かすべきか。金に苦労しているのであれば、金儲けに生かすべきである。かつての私に足りなかったのは、そのような真っ直ぐストレートな情熱の奔流である。金を稼ぐことに本気になれ。——貧しき私の定言命法である。

Love and Truth

昨夜、酒場で上司が指摘した、私がかまってちゃんである、という事実について、少し考えてみたい。

かまってちゃんは人からちやほやされたい。私を見てほしい、聞いてほしい、話しかけてほしい、という欲求がある。要するに特別扱いしてほしいのである。ただし、そのためには何らかの工夫と努力が必要である。人間は生まれながらにして美しい訳ではないので、凡夫が先のような恩寵に浴することは稀なのである。——恩寵それは愛と同義である。人は愛を得るために何ができるのだろうか。

芸術は希少である。芸術家もまた社会の中で希少な存在である。彼/彼女の技術クンストは極めて卓越しているために人々の耳目を集めるのだ。

さすれば、芸術家は人と神の恩寵を得るために、必死のおこないを重ねている人なのだ。芸術は人に仕えるだけではない、神に仕えているのだ。芸術は最終的に真なるもの、聖なるものに到達するからである。それは人々が保証することができない「神のみぞ知る」ことである。

あいまことを求めて不断の努力と工夫を重ねる。人々はその人を芸術家と呼ぶのである。

雌伏と至福

昨夜、竹ノ塚のバーで、上司としこたま飲んだ。

11歳年下の上司なのだが、彼女によると、私は「かまってちゃん」らしい。昨夜も「飲みに行くか」と、彼女の方から声を掛けてくれて、意気投合した。「金づるゲットー!」と冗談交じりに言っていたが、そこは「パトロン」であると訂正しておいた。

酒と煙草をこよなく愛する人で、煙草の銘柄をKOOLからPeaceに変えていた。メンソールだと酒を飲みながら際限なく吸い続けてしまうとのこと。一晩で二箱空けてしまうこともあるらしい。とまれ、レギュラーへの鞍替えは煙草ほんらいの味わいが分かる良い選択だ、などと、彼女に比べて私の方が喫煙歴が浅いのに、こんなに偉そうなことを言ってもいいのだろうか。先方はヘビースモーカー&チェーンスモーカーである。シガレットについて私が書いた文章を読ませたら、「あまり煙草を吸わないけど、煙草が大好きな人の感想文」と、笑いながら話した。「へー、タバコ吸い始めたのはけっこう最近なんだ」「そうだよ、この会社に就職してからだね」

私は年度末で転職してしまうけど、お話が絶えない明るい職場だった。私は介護という汚い仕事を通じて、相当鍛えられた。

酒場を後にすると、私は一人、会社の休憩室のソファーで眠った。

ショートスリーパーの苦悩

すがすがしい朝。ウイスキーを飲む。会社の仕事は午後から始まるので、それまでに醒めていればいい、という計算である。

最近は抗精神病薬 アリピプラゾールが身体に馴染んできたのか、コンスタントに5時間くらい眠れるようになった。それでもやはり、長く眠れていた頃に比べて疲れやすいので、機会を見つけて、適宜眠るようにしている。私の寝室の布団は敷きっぱなしである。

世間では、ワークライフバランスについて、喧しく言われるようになってきたが、一方では、ワーカーホリックに対する信仰も未だ根強く残っている。寝食を忘れて働く仕事師は、ことごとくショートスリーパーの資質を備えている(とされる)。実を言うと、私もワーカーホリックに対する憧れがあり、基本薬をアリピプラゾールに切り替えて以後、睡眠時間が短くなったのを内心喜んでいた。実際、仕事量と活動量は上がったので、私の期待外れではない。

しかし、ショートスリーパーは欠点(欠陥)がある。精神的に不安定になりやすいのである。医学的に見て、人間に平均的に必要とされる睡眠時間を1時間でも2時間でも削ると、体と心に静かに負担が掛かる。なので、みずからをメンヘラと自覚している人は意識的に睡眠時間を確保した方がいい。特に心身の調子を崩している時は尚更である。

今、私はさまざまな制約の中、寸暇を惜しんで、よく働いていると思うが、本当の私はワークライフバランスを心底求めているのだと思う。文筆であれ、介護であれ、私は仕事一辺倒になると、いつも体調を崩した。決まって先にメンタルがやられるのである。その最初の兆候は不眠である。私はロングスリーパーに憧れる。アインシュタインは毎日10時間眠っていたと聞く。彼の相対性理論のように宇宙の仕組みを解き明かすためには、たくさん寝て、悠長な気持になることが肝心なようだ。

鼓動

トントン。トントン。

嗜眠から醒めつつあるとき、誰かがドアを敲く音がする。

トントン。トントン。「……いるか?」

どうやら話しかけられているらしい。しかし、意識が回復しないので、うまく応えることができない。

トントン。トントン。「佐藤、いるか? いるなら返事をしろ」

呼ばれているのは私ではない、か。私は寝起きのやや混濁した頭で考えた。呼ばれているのは向かいの部屋の佐藤さんだ。

「また寝落ちしてしまったか」会社から帰ると、炬燵に当たりながら、温かいコーヒーを飲んでいた私は、いつのまにか眠り込んでいた。最近、そんなことがずっと続いている。当時、ミニコミ誌の記者ライターを務めていた私は、不規則な勤務で生活リズムが崩れて、不眠症を発症していた。医者から睡眠薬を処方されていたが、効かないこともあり、慢性的な疲労と倦怠感に襲われていた。もしかすると、この疲労の原因は睡眠不足だけではないのかもしれない。そんなことを思い始めていた。炬燵から這い出ると、私は身体を起こし、髪を整えた。靴を履き、玄関のドアを開けた。「どうしました?」

「佐藤の返事がないんだよ」私達は同じ会社の同僚であり、同じ社宅に住んでいた。彼等は新聞配達員、私は記者という職業の相違はあるけれど。「出勤の時間になっても営業所に来ないし、連絡もつかない。お前達が探してこい、と社長に命じられたんだ。……おうい、佐藤、居るなら返事しろ」

「携帯電話に掛けても繋がりませんか?」

「ああ、音信不通だ。駐輪場には奴のカブ1が置いてあるから、多分、どこにも出かけていない。奴のいきつけの酒場も尋ねたけど、どこにも見つからない。あいつ、酒を飲むことが唯一の楽しみだから。でも、最近は仕事が忙しすぎて飲みに行けてないけどな」

「やっぱり、この部屋に居るんですか?」

「ああ。最近の奴は自宅と会社の往復しかしていない。仕事が終わったら寝に帰る。ただそれだけだ。それに部屋の明かりが点いている」

私達の社宅の個々の部屋のドアには窓ガラスが取り付けられていた。今思うと不思議な設計だが、もともと社宅というよりも寮として建てられたので、住人の動きが多少分かるように作られているのだろう。

「あいつ、いつも電気をつけっぱなしにして寝ているんだけど、さすがに外出する時は消していたんだよ」

「佐藤、開けろ! 中に居るんだろ!」山本さんは続けた。「寝坊にしてはタチが悪い。嫌な予感がしてきたぜ」

「管理人に部屋の鍵を借りてきましょうか?」

「そんな暇はない。一刻を争う事態かもしれない。このままドアをぶち破るぞ。力を貸してくれ」

私と山本さんは「せいの!」の掛け声に合わせて、部屋のドアに体当たりした。ベニヤの粗末な作りのドアは簡単に吹き飛んだ。

予感はしていたものの、そこに拡がっている光景に私達は息を飲んだ。古新聞とゴミ袋が部屋の隅々に所狭しと積み上げられていて、その中心のすえた万年床に、佐藤さんが両手で胸を抑えながら横たわっていた。半開きの口からは涎が垂れていた。

「触ってはいけない!」抱き起こそうとする私を山本さんが制止した。「今年で三人目か。あいつ、もともと心臓が悪かったんだ」


  1. ホンダのバイク スーパーカブのこと。