選ばれし人

情熱冷めやらず。昨夜遅くまで、ファミリーマート西小岩店の軒先で、音楽家と学生、そして異邦人ことくにびとと飲みかつ話した。3時間ほど眠ったあと、顔を洗い、髪を整えて、池袋の立教学院諸聖徒礼拝堂(立教大学チャペル)に出かける。

聖餐式が終わったあと、会衆委員のSさんと歓談した。「Zoomによる『聖書』の読書会、もう2年くらい続けていますけど、兼子さん、そろそろ司会を担当なさらない?」

「来年度、転職して土日が休みになりますから、今よりも教会に参加できると思います。そしたら、洗礼も受けたいと思っています」

「それは絶対?」

「そう、絶対です」

「今まで何をしていたの?」

「荒野で悪魔に試みられていたんですよ。来年は個人で執筆、会社で編集の仕事をします。出版業界に返り咲くんです。『聖書』の研究が仕事にも役立つと信じています」

「頼もしいわ。あなた、強そうだからね」

洗礼——それを受けることは私の中で初めから決まっていたが、問題はどこで受けるかにあった。カトリック、プロテスタント、アングリカンのいずれかで迷ったし、同じアングリカンにしても洗礼を授ける教会、司祭によって、その後の信徒生活が大きく左右されることを知っていたからだ。

結局、立教大学の人々が私を受け入れた(市川の人々も私を歓迎してくれたが)。学問を修めた学び舎で、私は隣人となりびととともに自身の信仰を深めたい。荒野の試練をへて、私は母校に帰ってきた。それが神の御心だと思いたい。

帰路、東武デパートの煙草屋で、手巻煙草と刻み煙草、そして、シガリロを購入する。午後、自宅の書斎でウイスキーを飲みながら、煙草を巻いたり、吸ったりする。実際に自分で手を動かすことで、ようやく煙草の本質に触れたような気がする。至福の刻。

Book of Days

昨夜はエンヤの"Book of Days"を肴にしてウイスキーを飲んでいた。同曲は映画『冷静と情熱のあいだ』の主題歌(挿入歌)で、公開当初からずっと気になっていたけど、題名が判らなかった。今回、Amazon Musicで掴んだ形だ。

『冷静と情熱のあいだ』は辻仁成の小説"Blu"をすでに読んでいて、これは10年前に失恋したときに、涙なしに読むことができなかった。辻仁成は映画も音楽もこなす、マルチな才能の持主で、私生活も一見派手に見えるから、通俗作家に見られがちだけど、小説は真面目そのものである。小説の中に散文詩を挿入したり、書簡体小説を試みるなど、文学の王道を行っている気がする。私の書架にはなぜか思潮社刊の『辻仁成詩集』がある。そう、この人は詩も書けるのだ。ちなみに『冷静と情熱のあいだ』には、江國香織の"Rosso"があるが、私はこの人の小説を最後まで読み終えることができなかった。壊れた女の心に興味はない。それよりも男のエゴイズムとか、永遠なるものに私は関心を寄せる。

最近、書く量がとみに増えてきているけど、それを支えるための読書量が圧倒的に少ない。要するに勉強が足りないのだ。エンヤを聴きながら読書の秋といきますか。


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力と愛

もっと本を読まなければ、と思う。『聖書』は大事だが、それだけでは創作を支えきれない。観念は重要だが、文学とくに小説は具体的に叙述しなければならない。

研究者と作家。その相違について、本格的に書いてみたいが、まだ機は熟していないようだ。しかし、同じ研究者志望でも、勉強が苦手な人は作家になる。だから、山田詠美の『ぼくは勉強はできない』は、実は否定の末の肯定の書なのだ。

私は大学院に行き、政治学を専攻したけれど、結局、政治学者にはなれなかった。しかし、卒業したあとも、政治学の勉強は止めなかった。それまでに文学にかぶれたけれど、私の専門は依然、政治学だと思っている。今では学問とは無縁な介護現場で働いているけれども、私の意識の片隅にはいつも政治学があった。文士ライターとして開業してからは、これで堂々と政治学ができるんだ、と思って喜んだ。私の政治学への執着は恋愛に似ている。

政治学小説を書けないか、と思う。幕末、明治、大正、昭和を舞台にしたい。私の信条として、キリスト教が伝道した時代がいい。自由主義と社会主義が勃興、対立する時代の中で、キリスト教が両者をいかに和解させたかを描きたい。

政治学は私のライフワークであり、その核心はキリスト教が占めている。私は研究者としてではなく、作家としてこの学問の素晴らしさを伝えたい。

政治学は力の学問だ。しかし、そこに愛がなければ、私達の国家と社会を解明することはできない。力と愛——これは私の生涯のテーマになるだろう。大学院で研究していた頃には分からなかったことだ。十年の歳月は無駄ではなかった。

荒野の試み

12月1日付で異動することが決まった。役員は環境を変えて、私の勤労意欲を高めようとしているらしいが、課長は知っている。もはや、私を止めることはできない、と。実際は来年度の新卒入社まで頭数を揃えたいんだと思う。会社の懐柔策にまんまと乗ってしまった訳だ。

とはいうものの、毎日指を咥えて、時が過ぎ去るのを待つばかりではない。年度末までにやるべきことは山ほどある。

執筆

毎日のブログの更新と並行して、ルポ『山谷の基督』を完成しなければならない。そういえば、そんなものもあったな、と読者諸氏はお思いかもしれないが、山谷の基督はまだ生きているのである。ただし、第2節で止まっている。これはどこかの出版社に持ち込む訳ではなく、個人的なポートフォーリオにする。完成した暁は教授に送る。草稿を見せたら、「文章がいい」と褒めてくれたので、その方向で頑張りたい。文体が命である。

小説とルポルタージュの違いについては、近々、論考を発表するつもりだが、私自身は完全なルポルタージュは書けないと自覚している。構成ないし編集している途中で、必ず嘘が入る。虚構フィクション、と言ってしまえば格好はいいが、嘘は嘘である。私が小説家を志したのは、嘘つきの才能を自覚したからである。

事務

年度末に確定申告をしなければならない。個人事業は粗利が20万円を越えない、否、むしろ赤字だが、副業の訪問介護で少々稼いだので、確定申告をしなければならない。来年、転職した場合、副業で粗利が20万円を越えなければ、年末調整で済むので、楽といえば楽である。ただし、帳簿はつけなければならない。こうして事務作業に右往左往しながら、社会の仕組みを少しずつ知るのだろう。

転職

来年度は編集の仕事を求めて転職する。出版にこだわらずWEBも見ているが、書籍編集者だけは志望から外している。あれは片手間でできる仕事ではない。個人事業主の文士を続けたければ、会社員としてはおのずと、雑誌編集者、WEB編集者に限定されるだろう。個人の仕事と会社の仕事を相発展させるために、転職活動は慎重かつ強気で行いたい。

試練

介護の現場は作家を志す者にとって、劣悪な環境に違いないが、それでも私はみずから書き始めたのは、人生において得がたい経験だった。出版社に勤めて、恵まれた環境にいるにもかかわらず、書きたいと思いながら書けない人はごまんといる。人の子は荒野でキリストになった。私はその事実を身をもって理解した。

LondonDryGin

ひと仕事終えて、手持無沙汰にしている私に、H女史はタイピングの手を休めて言った。「そういえば、兼子さんって、何歳でしたっけ?」

「35、今年36歳です。Hさんはたしか……32歳ですよね。2年前の夜勤中に30歳の誕生日を迎えたことを覚えていましたから」

「ああ、4つ違うんですね。30代の2年間って、あっという間に過ぎますね」

私にはさまざまな情報を総合して、人の年齢、特に女性の年齢を言い当てる嫌な趣味がある。心の中に留めて置けばいいのに、それを本人の前で口に出してしまうのだ。諜報機関の密偵スパイではないんだから、そういう露悪趣味はやめた方が身のためだろう。私の人生を生きにくくしている。しかし、面白くもしている。

夕方、NHKで連続テレビ小説『ひまわり』を再放送している。私の家にはテレビがないので、職場でチラチラ見ているのだが、若き松嶋菜々子が出ていて懐かしくもある。主題歌の山下達郎の「DREAMING GIRL」がいい。「DREAMING GIRL、DREAMING GIRL、雨上がりの少女〽」と口ずさみながら働いている。私が黙々と働くのは稀である。

帰りに酒場でイッパイひっかけたくなったが、時間と金が惜しい、なによりも眠かったので、まっすぐ家に帰った。寝酒にBEEFEATERをトワイスアップで飲む。割り水にこだわりはない。金町の水道水でいい。最近、サントリーのすいなどのJapanese Craft Ginが流行っていて、緑茶、生姜などの珍しい材料を使い、これはこれで美味しいが、やっぱり、私はLondon Dry Ginが好きである。伝統に磨かれた純粋な味わいがある。ロンドン市民はこの安酒を飲みながら、戦争、貧困、疫病など、人類に幾度も降りかかる災禍に耐えてきたのだ。その不屈の精神スピリッツを思いながら、酒浸りになる夜も悪くない。

芸術と涜神

小説を書いている。今は大量に書いて、このブログにも習作をばんばんアップしなければならないが、やはり、虚構フィクションを捏造するというのは、精神に独特の負荷がかかるらしく、小説だけでは毎日更新ができないのが現状である。

作家クリエーターとその創造クリエーションについて考える。最近、noteなどでは「クリエーター」と言われているが、いったい誰のことだろう。その人の業はどのようなものなのだろうか。

作家は研究者と違い、みずから作品を作り出す人のことである。こんなことを言うと研究者に怒られてしまいそうだし、研究者にしても、数学者など、独自にして普遍的な理論を大胆に創造している人がいるのも知っているが、それでも作家と研究者は違うのである。作家とその作品には個性が求められる。この世界に新しい人がやってきた、と人々に思わしめなければならない。作家とは個性的な作品を創造する人なのである。

しかし、その創造とはいったいどういう類の行為なのだろうか。創造とは神学的にみれば、無から有を作り出す、神のみに許された行為である。神の被造物たる人は有から有を作り出しているに過ぎない。しかし、作家は創造するのである。彼/彼女は無から有を作り出す。神の業を人が行うのである。それは涜神的な行為である。芸術家は人の限界を踏み越えて、神に近づこうとする人のことである。

しかし、私たち芸術家は本当に無から有を作り出すことができるのだろうか。小説を書いてみると分かることだが、非常に経験に負っているのである。私の小説があまりに私的だから、そう思えるのかもしれない。しかし、どんなに緻密に構築された虚構でも、世界にすでに存在する想像イメージを借用しているのである。もう一度問う。人は本当に創造することができるのだろうか。もしかすると、芸術家はもはや人ではないのかもしれない。良くも悪くも人の道を踏み外した存在ではないだろうか。

創造することの恐れと望みを、私は小説を書きながら確認したい。

RoutineWork

年末調整をしなければならない。しかし、いっこうにやる気が起きなかったので、ビールを飲みながら片づけた。こんな調子では年度末の確定申告が思いやられる。個人事業主としては完全に赤字である。収入のほとんどを給与所得に頼っている。最近、酒に頼りすぎているのではないか。

はてなブログのコメントとスターを再開した。一時期、匿名の心ないコメントがあり、それに心を痛めていたが、試行錯誤の末、勇気をもってコメント欄を一般に公開することにした。先日、13代目を襲名した市川團十郎は「清濁併せ呑む」ことが芸事を生業とする人の覚悟であると語った。水清ければ魚棲まず。芸術家とその仕事は、毀誉褒貶の様々な言説に曝されて、成長、発展するのだろう。文学も同じだと思う。

株式投資を始めたい、という思いがにわかに強くなる。投資、と先に書いたが、経済学的に言えば、銀行券を株券に替えるだけなので、貯蓄の一形態に過ぎない。なんら特別なことではない。そのために安定した収入を確保すること。酒に溺れている場合ではない。