安定か革新か

昨年1月に始めた訪問介護のアルバイトを辞めた。今まで多忙、過労を理由に退職を先延ばしにしてきたのだが、それでは問屋が卸さないということで、正式に退社したのだ。

私は今までこのブログで介護のことを悪し様に書いているけど、実際、現場に出ると真面目に働くのである。引退引退と言っているけど、仕事はけっこう早い。同僚と利用者のために比較的良心的に働いている。特に古巣の特養(特別養護老人ホーム)に戻ってからはその傾向が顕著である。

しかし、自分はもうこの方面では伸びないな、と思っている。介護の三大業務は食事・排泄・入浴なのだが、もうあらかた覚えてしまったのである。確かに細かな気づきや学びはあるけれど、所詮マイナーなことで、仕事と人生を根本から変えるような変革はまず起こらない。それがヴェテランだと言われればそれまでなのだが、惰性で仕事を続けていると、私は確実に腐ってしまうのである。「新しいことはもはや何も起こらない」という認識はポストモダン的諦念と絶望をもたらす。

過日、精神科の主治医と話している時のことである。私と彼は「福祉は停滞している」という認識で一致した。超高齢化社会で介護福祉は成長産業と思われるかもしれない。確かに参入する事業者は多いが、その実、現場の労働者は倦怠しているのである。革新イノベーションが起こらない。卓抜な観念アイデア技術テクノロジーの結合による生産性の飛躍的な向上が認められないのである。福祉は保守的というよりも、慣習的、因習的な業界である。

福祉は安定しているが、苦役は多く才能は少ない。私が出版に復帰する理由は才能で勝負したいからだ。多少の危険リスクを受け入れても、これは実現したいと思っている。この世に生れて来た以上、私は自分の才能を十全に開花させたいのだ。

しかし、安定した福祉の仕事も捨てがたいと思っている自分もそこにいる。私は4年間、介護福祉の仕事を勤めた。年齢も三十代後半である。今から自身の棲む業界を変えるのは、業種を変えるよりも難しい。私は自身の経歴キャリアを大切に育てていくしかないのではないだろうか。これは現実主義的認識である。

今後、私にできることは執筆を主軸にして、福祉と他の仕事を結合し、架橋することではないだろうか。シュンペーターが理想とした企業家による革新イノベーションはそのような営みから生れる。それは畢竟、政治、宗教、学問、芸術を含むのだ。

福祉しあわせは聖書の言葉 永遠とこしえ平和やすきのために使徒は祈りき

酒を飲むイワン

ドナルド・W・グッドウィン『アルコールと作家たち』という本の中で、「優れた作家は慎重に飲むことを弁えている」という或る小説家の言葉が引かれていたが、今の私に必要なのは禁酒でも節酒でもなく、まさにこのスキル(やはり、節酒と呼ぶのだろうか)で、身体を壊さない、生活を破壊しない、そして、尚且つ酒の力も借りてばんばん書くことである。私は特別、血中アルコール濃度を上げながら文章を書くことについて良心の疚しさを覚えない。書ければそれでいい。昨日よりも今日の原稿の行数が増えていれば、それで佳しとする人間である。芸術ことに文芸においては、御茶と珈琲だけで仕事をするには限界があるような気がする。

結局、私は毎日酒を飲む。今までは主に音楽を聴いて過ごしていたが、今後はあまり深酔いしないように気をつけながら、その時間を執筆に当てようと思う。消費から生産に切り替えるのだ。

『カラマーゾフの兄弟』の一見細かいが、興味深い場面がある。父 フォードルが修道院で愚かな振舞いをして、当地を去る時に、次男 イワンにこう言うのだ。「イワン、お前も一杯やるだろう!」カラマーゾフの酒飲みの血筋は、知識人 イワンにも受け継がれているのだ。三男の活動家 アリョーシャもいつか失意の内に酒に溺れる日が来るかもしれない。

つむじ風

東京に大寒波きたる。ということで、昨夜はなぜかつむじ風が凄かった。心身ともに疲れ、冷え切った私はウイスキーを飲んでさっさと寝てしまった。この頃は飲み方も定着しており、ウイスキー(1)と水(1)のトワイスアップが定番である。この飲み方だと胃腸、食道などの消化器官に負担をかけないのである。もちろん、ストレートで飲むのも大好きだが、これはウイスキーの味を確かめる時にしかやらない。

近頃は早番の勤務にも慣れた。早起きはけっこう得意である。昨日は人手が足りなかったが、気持よく働くことができた。

ヴァイオリニストの友人と電話していたら、「カネゴンはFランの大学に入ったら、不登校になっちゃうから」と言う。これは正しい。私は学者になれなかったが、今でも大学に通い続けられるのは有難いことである。先日、チャプレン1と話す機会があったが、その学識に圧倒された。それまで『聖書』の読書会で何度かお会いする機会があったので、「考えるのが好きな人なんだろうな」と私を見てくれたのは嬉しいことだ。

今は向こう30年間、文筆の仕事に専念するために状況を固めているような感じだ。あとは転職するだけだが、万が一、希望の職に就けなくとも、私はあまり落胆しない。ここまで来れば一人でもできる。そして、けっして一人にはならないだろう。


  1. 大学附属の牧師のこと。

平行線

芸術上の傑作は、そこに盛られた内容よりも、とにもかくにも生活に打ち克って作品の体をなしたという事実によってわたしたちに慰めをもたらす。だから何より希望の糧になるのは絶望的な内容の作品である。

テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』

私にはアドルノやベンヤミンの言うことが分からない。彼等を称賛する藤田省三の言うことは理解できるのだが(畢竟、彼の思想は経験哲学である。その点、彼の師である丸山眞男、さらにその師である南原繁とも立場が異なっていた)、どうしても先のフランクフルト学派の二人の仕事は理解することができない。トーマス・マンもヘルマン・ヘッセも彼等の言わんとすることは分かる。もしかすると、私は学問よりも芸術の方が向いているのではないか。前者はどこまでも知識人の営みであるのに対し、後者は最終的に大衆に受け入れられることを望んでいるのである。

しかし、冒頭に引いた、アドルノの文章はよく理解することができる。私は彼の書いた物すべては理解することができないが、その断片は分かるのである。もどかしいが、こういう読書も時には楽しいものである。

山谷のルポルタージュは毎日書いている。しかし、あらゆる所に躓きの石がある。それでも、その度に立ち止まって、くよくよ思い悩むよりも、書ける所から書いてしまった方がいいのである。この点がテキストエディタでの執筆の長所である。恩師の先生には送るが、今となっては売り物になるような作品ではない。ポートフォーリオとして納めて、転職の材料にしよう。

生活即芸術という言葉が浮かぶ。しかし、これでは全然弱くて、芸術が生活を圧倒しなければならない。それならば、芸術即生活と言えば正しいのだろうか。一見、芸術至上主義に見えるがそうではないだろう。芸術は芸術。生活は生活。ただそれだけである。両者は並行して進行していく。そのどちらにも、悦楽と苦労があるのだ。

業界予想図2

昨日、聖餐式のあと、会衆委員の丸茂さんが紙袋に梱包された本を手渡してくれた。

「なんですか? これ?」包装紙を透かして見ると、裏表紙には何かのリストが記されてある。資格の本だろうか。

「いいから、あとで開けてみてよ」丸茂さんは含みのある笑みを浮かべた。

池袋東口のHUBでジントニックを一口すすって気持を落ち着かせると、思い出したように本の梱包を解いてみた。

その本の正体は、日本経済新聞社『業界地図 2023年版』。丸茂さんは私が転職活動を始めつつあるが、WEB業界に不案内であることを知りつつ、この本を呉れたのだった。

キリスト教徒をやっていると、こうした恩寵に預かることがあるから辞められませんな。そして、受洗に向けて行動を開始したので、年度末は逸楽に耽ることなく、己を律して正しく生きていきたい。——しかし、やるべきことが多い。更生し、再び立ち上がるためには、このくらいの忙しさが丁度いいのかもしれない。

日経の「業界地図」を拡げたる我の転職成就するべし

宵待の平和

一昨年おととし頃から職場に馴染みきることができない。職場の同僚と融和することができないのだ。常勤から非常勤に降りて、別の仕事を始めようとしているから、会社と業界に見切をつけている意志は明白なので、当然なのだが、実際に行動に写す前からその萌芽は存在していたような気がする。私は結局、介護の仕事とその現場に親しむことができなかった。これが答えではないか。人は少しでも自分が活躍できる場所、安心できる場所で働くべきである。今回の転職活動はそれを探求する旅だと思うと、少しワクワクしないだろうか。私の居場所はどこにもない、どこに居ても異邦人である、と観念するのは簡単だけれども。

施設の仕事を終えて、帰路、コンビニでPeaceを買う。両切のショートではなく、フィルター付のキングサイズである。ソフトパックのベージュのPeaceである。

自宅の書斎で、雨戸で締め切って一喫する。私は煙草は広々とした屋外で吸うよりも、四畳半の密室で吸う方が好きなのだ。副流煙も含めて楽しめるのが、その理由として挙げられるが、私は煙草は隠れ家で吸いたいというのが最大の動機として挙げられるだろう。だから、職場の喫煙所にはほとんど行かない。同僚には私は非喫煙者に思われているが、その実、私は大の煙草の愛好家である。喫煙の文化と伝統も守りたいと思っている。ゆえに私は加熱式タバコには断固反対である。話が逸れた。結局、酒も煙草も家で飲むのが一番うまいのである。

Peaceは副流煙が美味い。甘く、丸味のある喫味なのである。やさぐれて、とげとげしくないのである。もちろん、私はもう少し辛く、刺激の強い煙草も好きだが、趣味として煙草を嗜むならば、こういう上等な銘柄は必ず知るべきだ。私はパイプの愛好者であり、この喫煙具に執しているから、最後はパイプ一本あればそれでいい。しかし、たとえ世界からすべての紙巻がなくなろうとも、Peaceだけは残してほしいものである。

宵待のPeaceに小さき火をつけて甘き煙はカウンターに満つ

Peace

溶けたタマネギ

一昨日、夕食にカレーを作った。材料は鶏肉、ニンジン、タマネギ。ルーはゴールデンカレーの甘口を使った。

大鍋に具材を入れて、30分ほど煮込むと、大まかに刻んだタマネギは概ね溶けてしまった。ニンジンは1袋(3本)を使用したので、鶏肉よりも存在が目立ち、結果として、チキンカレーというよりも、ニンジンカレーとなった。

素材ないし材料をいかに活かすか? その点、料理と文学は相通ずるものがあるが、私は文学に比べると、料理は繊細さに欠け、男の料理の域を出ることはない。生活において、読書、執筆、睡眠を優先しているので、食事は手早く済ませたいのだろう。それなりに栄養があり、満腹になればそれで良い。私は食事に関して、つべこべ言うのははしたないことだと思っているので、グルメではない。ただの大食漢である。その点、文学に対する気難しい、神経質な態度とは大きく違っている。

しかし、仕事と勉強の合間に包丁を持つのは、それなりに気分転換になるし、癒しにもなる。今年は創作と料理に励んで、再生の道を歩みましょうか。