Marginal Woman

ヨーロッパ就中、ドイツにおいて、ナチスを初めとする反ユダヤ主義が吹き荒れた。その際、多くの知識人たちはドイツからフランスへ、あるいはイギリスへ逃げたが、最後に行き着いたのはアメリカだった。亡命知識人たちのアメリカへの影響を検証したのが本書である。

戦中、戦後アメリカにおいて、社会科学、人文科学、ならびに芸術家を含めた知識人は苦闘を強いられた。アメリカの学術界、読書会に受け入れられるかは、文化的文脈、歴史的文脈にかかっていた。しかし、それだけではない。亡命知識人が異文化に接した際、開かれた態度を取るか、閉じた態度を取るかにかかっていた。ドイツ/オーストリアでも成功を続けるためには、少なからずアメリカの文化に迎合する必要があった。そのためには意識的/無意識的な戦略が必要である。その点で、本書は成功と敗残の物語である。これを記述するためには相当なリアリズムの勇気が要求される。

ハンナ・アレントは本書においては、「自称賤民パーリア」と称される。今日の名声を考えると想像できないかもしれないが、彼女はアメリカで主要な大学の終身在職権テニュアを持つことはなかった。彼女が信奉していた現象学も、亡命した当初はアメリカ哲学会の周縁に置かれていた。彼女のアメリカでの成功は、主な関心を哲学から政治学に切り替えたこと、そして、アイヒマン裁判を初めとするジャーナリスティックな仕事に手を染めたことである。このような政治的活動は、しっかりした大学教授の身分では案外叶わないことである。在野の知識人として生きることが彼女の性に合っていたように思われる。

自転車通勤

今の職場を辞めることに決まって以来、私はたびたび自転車で通勤するようにしている。交通費は支給されているし、それゆえに本当は電車以外の方法で会社に通ってはいけないのだが、どうしたことか定期券を購入しておらず(やはり、今の職場を自身の仕事場として思うことができなかったのだろう)、その都度実費を払うのが嫌なので、半ばヤケクソで自転車で通勤しているのである。私の愛車はTREKのクロスバイクなので、それなりのスピードは出るが、通勤の時間帯は混むので、緩急をつけて漕いでいる。片道1時間。汗をかき、脚に程よい疲労を感じるので、職場に着いた時には一抹の達成感がある。今までは乗り継ぎの悪い電車に揺られて、歩道をとぼとぼ歩いていた頃は、職場の建物が目に入ると「うわぁ、またここに来てしまったのか」と絶望的な感情を抱いたものである。近代の福祉が建てた鉄の檻に進んで入り、むざむざ己の自由を放棄するのは、どこか喜劇的な光景である。

それはともかく、自転車通勤はまことに気持がいい。脚の筋肉は鍛えられるし、程よい有酸素運動なので、肺のガス交換が活発に行われる。全身が活性化する。ととのうのである。来月から職場が変わるので、自転車通勤は叶わなくなるが、この運動の習慣は続けたい。体と心に明らかに良い作用を及ぼしている。

悪習を断つ

最近、疲れやすい。よく眠っているし、ちゃんと食べているのに、それでも疲れやすい。原因はなんとなく分かっている。おそらく、酒のせいだろう。逆に酒をほとんど飲まなかった翌日は体が軽いのである。酒はいったん飲み始めると、2、3時間、音楽を聞きながら飲み続けてしまうので、これは時間と体力と資金の無駄遣いである。4月に新しく仕事を始めるのだから、今までの悪習を断ち切りたい。酒はほどほどに飲むと、心身がリラックスして健康にいいが、その塩梅が難しいんだな。酒に溺れるのを防ぐためにも、今後は時間で区切るのがいいと思う。私は大人になってからはゲームを嗜まないが、子供の頃、親に時間制限を設けさせられていたのに似ている。その点、アルコール依存症とゲーム依存症は似ているのだろう。どちらも報酬系のドーパミンの放出に関わっているからだ。

歴史的文書

朝、立教大学チャペルで聖餐式。広田勝一チャプレン長の『旧約聖書』に関する講話を聴いていると、『詩篇』の節番号が私の手持ちの文語訳『聖書』と相違していることに気づく。最初は先生がレジュメに転記するのを間違えたのかなと思っていたが、家に帰って、先日購入した、聖書協会共同訳の後記を読むと、新改訳/新共同訳/聖書協会共同訳の『旧約聖書』の章番号と節番号は、文語訳/口語訳と相違している旨を記載してあった。人類史に始まる歴史的文書なのにいいのか、と思うが、たぶん底本としたヘブライ語版が違うのだろう(その点、『新約聖書』が底本にしたギリシア語版は変わらないのかもしれない)。聖書学について、私はド素人なので、これ以上何も言うことはない。しかし、確かなことは、当今の教会の礼拝が聖書協会共同訳で執り行われるとしても、私は個人的に文語訳『聖書』を愛読し続けるということである。単純に古語が好き、というだけでなく、括弧の中の句読点の打ち方がまことに気に入っているのである。古語で書かれているのに、現代の小説のように読めるのである。そんな些細な違いに拘るなと言われそうだが、少しの違いは大きな違いなのである。

話は変わるが、このブログ BOOKMANは半年前から毎日更新を旨としてきたが、その方針を放棄しようと思う。転職に伴い立場が変わることが大きな理由だが、毎日更新することで、徐々に内容が薄まってきたことにも胸を痛めていた。本当はコメント欄を設けて、読者の皆様と交流したいが、この頃、心ない人物からのスパムが増えてきたので、撤去してしまった次第である。また、ブログを書くことで、築いた人間関係もあるが、壊した人間関係もある。公衆に向けて、実名を曝して、文章を公表することは、楽しいことばかりではないということが、痛みをともなう行為おこないであることがよく分かった。それがブログを書き続けてきたことによる本当の成果だろう。

現実の人間関係のトラブルを防ぐために、ペンネームないしハンドルネームを使うことも、特にネット空間では推奨されるのかもしれないが、それは私の気質に適っていないので、最初はじめから選択肢から除外している。トルストイが文書に著名する時、「レフ・トルストイ」と力強く記したことを思い出せ。芸術というわざによって、神と世界に愛される人物は、本来の名前が相応しいのである。

と、今回はいろいろと泣き言を書いてしまったが、このブログは時間と体力さえあれば、頻繁に更新することは変わらない。私の文筆活動のホームページなのである。

春眠

転職が決まった。4月からは某業界新聞の記者ライターとして働くことになるが、それまでに酒と煙草を控えて、体調を整えておきたい。特に紙巻シガレットは癖になり、オフィスワークの支障になるので、今のうちに辞めておきたい。ただし、パイプは辞めない。

今回の転職にあたっては、ライターを含めた出版業、文筆業の経歴だけでなく、先の4年間の介護福祉の経験を評価してくれたことが嬉しい。「人生に無駄なものはない」としばしば言われるが(実際の世界は無駄なものでイッパイであるが)、徒労ないし突き詰めれば苦役としか言いようがない介護の経験を買われるとは思わなかった。介護福祉士の資格を持っていることも、採用担当者に大きな印象を与えたと思う。経験とそれを証明する資格は大切なんだな。

今月は確定申告もあるし、新生活に向けていろいろ準備しなければいけないことも山ほどあるから、創作は控え目になると思う。その代わり、読書はどっさりしたい。今は準備のための溜めの期間だ。

時宜

あましたよろずことにはあり
よろず事務わざにはときあり
うまるゝにときありぬるにときあり
うるにときありゑたるものくにときあり

『傳道之書』

この頃、作品と呼べる物をほとんど書いていない。小説はむろん、短歌も新作を書くというよりは、すでに書き溜めたものをリライトばかりしている。転職活動で余念がなくなり、創作に意識を向けることが難しくなったことが一因として考えられるが、原因はそれだけではない。たぶん、創作に不毛な時期なのだろう。ライターは書かなくば存在しない。書けなくなること、それはライターの死を意味する。この不毛な時期をどう過ごすか。創作は最低限にして(あくまで書くことは止めない)、執筆以外の活動に労力を振り向けることである。

たとえば、普段の執筆は日記とブログと短歌にとどめておいて、それ以外の時間は読書、料理、恋愛などその他の活動に没頭する。その経験が後の創作の肥しになると信じて、不毛な季節を耐えるしかない。介護の4年間を通じて、私は現実に静かに耐えることを学んだ気がする。——書くに時があり、読むに時がある。

ビートルズのなぐさめ

新宿のとある業界新聞の面接のあと、私は昂った気持を鎮めるために、喫茶店に入り、hi-liteを一喫した。紫煙を燻らせながら、店内のスピーカーに耳を傾けていると、懐かしい曲が流れてきた。The Beatlesの"Hey Jude"である。その歌声を聴いた瞬間、私の疲労つかれ悲哀かなしみに形を与えてくれるのは彼等の音楽であると理解した。叔父から貰ったThe BeatlesのCDを聴き倒す日々がしばらく続くだろう。


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昨日、職場の後輩の家に集まって、ピザ&寿司パーティーを行った。介護福祉士国家試験の慰労をかこつけて、要するに男同士でワイワイやりたかったのである。コロナが明けて、こういう催しがようやく大っぴらにできるようになった。みんな、我慢していたのだ。日々の辛い労働に耐えるには、時々の楽しい出来事が必要だ。当たり前のことである。

御馳走に舌鼓を打っていると、不意に会話が煙草などの嗜好品に移った。私がパイプを弄んでいると、後輩が部屋の片隅から化粧箱を取り出して言った。「4年間おつかれさまでした。これは僕達の気持です」箱を開けると、葉巻シガーが3本入っていた。私と同期の同僚が銀座の菊水で買ってきてくれたのだ。この頃、金に不自由していたから、このような贅沢品を手にするのは久しぶりである。

ありがとう、中川くん。君が呉れる贈物プレゼントは、いつも私の趣味嗜好を考慮した、本当に嬉しい品物ばかりだ。私はいつも君のことを「自分のことしか考えていない」とたしなめているが、実際、私の方が遥かにエゴイストだ。君は仕事を通じて、愛し愛される。幸せになれる。ただ今は若いから苦労くるしみが多いだけだ。君の重荷を少しでも軽くするために、私達大人を使ってくれてもいい。そのために私達は存在するのだ。