さまざまな愛のかたち

性愛エロス慈愛アガペー友愛フィリア神愛カリタス。人にはさまざまな愛の形がある。本書は愛の概念の歴史を、プラトン、アリストテレスのギリシャ哲学から、ナザレのイエス、アウグスティヌス、トマス・アクィナスのキリスト教神学を読み解くことを通じて明らかにする。優れた思想史は、ただ概念の変遷を追うのみではなく、その本質を解明してくれる。つまり、著者の山本芳久は愛することの普遍的な意味を示しているのである。愛は私達に喜びをもたらす。『ヨハネ傳福音書』には次の一節がある。

我これらの事を語りたるは、我が喜悦よろこびの汝らに在り、かつ汝らの喜悦よろこびの満たされん為なり。

本書は講義形式の入門書であるが、思想史の醍醐味を伝える、優れた研究書でもある。思想史に限らず、歴史学というものは、専門だけでなく、その周辺の該博な知識がなければできない仕事である。この本を手がかりにして、聖書、アリストテレス、トマス・アクィナスを実際に読んでみたいと思う人は少なくないだろう。翻訳のみならず、原典に当たる人が増えれば幸いである。そして、気づかされるのは、学問、芸術、宗教は、本来は楽しいという事実である。愛について考えている人は、愛に悩んでいる人である。その解決の糸口がこの本にあるのではないだろうか。

Return to Bookman

このブログでは今まで私の様々な私生活を曝してきたけれど、そろそろ本来のコンセプトである『BOOKMAN』に立ち返り、書評などを中心に執筆していこうと思う。

その主な理由としては、今春、転職することにあり、私生活や社会生活などの私のリアルを書くことによるトラブルを回避したい為である。ごくまれにそれらについて書くことがあっても、あくまでも例外的なものである。基本は本について書く、文学を文学することが多いと思う。

二つ目の理由としては、本をたくさん読みたいからである。創作のために必ずしも沢山の本を読む必要はないが、長い目で見た場合、作品の肥しになることは確かである。また、純粋に知識欲として本をどっさり読みたいという私の否みがたい欲求がある。そもそも読書の理由は知識の獲得に限らない。文章を読むことは音楽を聴くことに似ている。それは心地よい時間なので、私達に本当に豊かな生活をもたらす。私は読みながら書く方が性に合っているような気がする。

もうすぐ新年度である。私の学者と作家という二つのペルソナを使いこなして、仕事と勉強に励んでいきたい。

Dandyism

昨日の歌会の終了後、相原かろさんに「この作品のダンディズムは兼子さんのだと思った」と言われたのは嬉しかった。作品に個性が表れている。私の生活様式が文体にまで昇華されてきている。また、別の方から「詠みぶりが古風だ」と指摘を受けた。これもよろしい。文語訳『聖書』を読み続けた賜物だ。現代の下手な口語短歌に靡かない。私はクラシックが好きなのだ。

島地勝彦『迷ったら、二つとも買え!』を読み終えた。ライター/バーマンの著者は、その豪華な暮らしぶりのゆえに、けっこう高飛車な人なのではないかと思っていたが、実際に読んでみると、その語り口は優しく、大人あるいは老人として、若者を導く姿勢が感じられる。文章も現代には珍しい、一本筋が通った柔らかさを持っている。開高健ゆずりの誇張した表現が多いのかな、と思っていたが、そんなことはない、常識的な文体である。

しかし、著者の浪費生活には、私はどこまでも付いていくことはできなかった。高価なシングルモルトウイスキーは確かに美味いが、安価なブレンデッドウイスキーも捨てたものではない。毎日気軽に楽しめる手軽さがある。そもそもウイスキーの敷居をそんなに上げたら、世界からウイスキーファンがいなくなってしまう。大衆的な安酒にも存在価値を認めてほしい。その点、私はWHITEを飲みながら、みそ汁を啜っていた、田中小実昌の肩を持ちたい。

食事も私はぜんぜん贅沢しないので、というか拘りがないので、島地さんの流儀に合わせることができなかった。私が独身のためだろうか、食事はなるべく手早く済ませたいのである。私は酒にはこだわるが、食にはぜんぜんこだわりがない。むしろ、給された食事に対して、つべこべ言うのは卑しいことだと思っている。ゆえに、「納豆御飯が究極の料理だ」と豪語する、嵐山光三郎の味方をしたいのである。豪華な料理は美味い。しかし、貧乏な料理にも確かに味があるのである。それでは文化が育たない、と言われてしまえば、それまでなのだが……。

と、批判的なことばかり書いてしまったが、「私は浪費家の道を極めるためには、やはり独身でなければ無理だと思っている」と書く、島地さんの文章は血が滲んでいると思う。なぜなら、島地さんは結婚され、所帯を持っているのだから。人生は悲しく、儚い——まさに「知る悲しみ」である——それを感得した人間が初めて、浪費という極道の道を歩むのだろう。浪費は巡礼の旅に似ている。その道程はまだ始まったばかりだ。

Marginal Woman

ヨーロッパ就中、ドイツにおいて、ナチスを初めとする反ユダヤ主義が吹き荒れた。その際、多くの知識人たちはドイツからフランスへ、あるいはイギリスへ逃げたが、最後に行き着いたのはアメリカだった。亡命知識人たちのアメリカへの影響を検証したのが本書である。

戦中、戦後アメリカにおいて、社会科学、人文科学、ならびに芸術家を含めた知識人は苦闘を強いられた。アメリカの学術界、読書会に受け入れられるかは、文化的文脈、歴史的文脈にかかっていた。しかし、それだけではない。亡命知識人が異文化に接した際、開かれた態度を取るか、閉じた態度を取るかにかかっていた。ドイツ/オーストリアでも成功を続けるためには、少なからずアメリカの文化に迎合する必要があった。そのためには意識的/無意識的な戦略が必要である。その点で、本書は成功と敗残の物語である。これを記述するためには相当なリアリズムの勇気が要求される。

ハンナ・アレントは本書においては、「自称賤民パーリア」と称される。今日の名声を考えると想像できないかもしれないが、彼女はアメリカで主要な大学の終身在職権テニュアを持つことはなかった。彼女が信奉していた現象学も、亡命した当初はアメリカ哲学会の周縁に置かれていた。彼女のアメリカでの成功は、主な関心を哲学から政治学に切り替えたこと、そして、アイヒマン裁判を初めとするジャーナリスティックな仕事に手を染めたことである。このような政治的活動は、しっかりした大学教授の身分では案外叶わないことである。在野の知識人として生きることが彼女の性に合っていたように思われる。

自転車通勤

今の職場を辞めることに決まって以来、私はたびたび自転車で通勤するようにしている。交通費は支給されているし、それゆえに本当は電車以外の方法で会社に通ってはいけないのだが、どうしたことか定期券を購入しておらず(やはり、今の職場を自身の仕事場として思うことができなかったのだろう)、その都度実費を払うのが嫌なので、半ばヤケクソで自転車で通勤しているのである。私の愛車はTREKのクロスバイクなので、それなりのスピードは出るが、通勤の時間帯は混むので、緩急をつけて漕いでいる。片道1時間。汗をかき、脚に程よい疲労を感じるので、職場に着いた時には一抹の達成感がある。今までは乗り継ぎの悪い電車に揺られて、歩道をとぼとぼ歩いていた頃は、職場の建物が目に入ると「うわぁ、またここに来てしまったのか」と絶望的な感情を抱いたものである。近代の福祉が建てた鉄の檻に進んで入り、むざむざ己の自由を放棄するのは、どこか喜劇的な光景である。

それはともかく、自転車通勤はまことに気持がいい。脚の筋肉は鍛えられるし、程よい有酸素運動なので、肺のガス交換が活発に行われる。全身が活性化する。ととのうのである。来月から職場が変わるので、自転車通勤は叶わなくなるが、この運動の習慣は続けたい。体と心に明らかに良い作用を及ぼしている。

悪習を断つ

最近、疲れやすい。よく眠っているし、ちゃんと食べているのに、それでも疲れやすい。原因はなんとなく分かっている。おそらく、酒のせいだろう。逆に酒をほとんど飲まなかった翌日は体が軽いのである。酒はいったん飲み始めると、2、3時間、音楽を聞きながら飲み続けてしまうので、これは時間と体力と資金の無駄遣いである。4月に新しく仕事を始めるのだから、今までの悪習を断ち切りたい。酒はほどほどに飲むと、心身がリラックスして健康にいいが、その塩梅が難しいんだな。酒に溺れるのを防ぐためにも、今後は時間で区切るのがいいと思う。私は大人になってからはゲームを嗜まないが、子供の頃、親に時間制限を設けさせられていたのに似ている。その点、アルコール依存症とゲーム依存症は似ているのだろう。どちらも報酬系のドーパミンの放出に関わっているからだ。

歴史的文書

朝、立教大学チャペルで聖餐式。広田勝一チャプレン長の『旧約聖書』に関する講話を聴いていると、『詩篇』の節番号が私の手持ちの文語訳『聖書』と相違していることに気づく。最初は先生がレジュメに転記するのを間違えたのかなと思っていたが、家に帰って、先日購入した、聖書協会共同訳の後記を読むと、新改訳/新共同訳/聖書協会共同訳の『旧約聖書』の章番号と節番号は、文語訳/口語訳と相違している旨を記載してあった。人類史に始まる歴史的文書なのにいいのか、と思うが、たぶん底本としたヘブライ語版が違うのだろう(その点、『新約聖書』が底本にしたギリシア語版は変わらないのかもしれない)。聖書学について、私はド素人なので、これ以上何も言うことはない。しかし、確かなことは、当今の教会の礼拝が聖書協会共同訳で執り行われるとしても、私は個人的に文語訳『聖書』を愛読し続けるということである。単純に古語が好き、というだけでなく、括弧の中の句読点の打ち方がまことに気に入っているのである。古語で書かれているのに、現代の小説のように読めるのである。そんな些細な違いに拘るなと言われそうだが、少しの違いは大きな違いなのである。

話は変わるが、このブログ BOOKMANは半年前から毎日更新を旨としてきたが、その方針を放棄しようと思う。転職に伴い立場が変わることが大きな理由だが、毎日更新することで、徐々に内容が薄まってきたことにも胸を痛めていた。本当はコメント欄を設けて、読者の皆様と交流したいが、この頃、心ない人物からのスパムが増えてきたので、撤去してしまった次第である。また、ブログを書くことで、築いた人間関係もあるが、壊した人間関係もある。公衆に向けて、実名を曝して、文章を公表することは、楽しいことばかりではないということが、痛みをともなう行為おこないであることがよく分かった。それがブログを書き続けてきたことによる本当の成果だろう。

現実の人間関係のトラブルを防ぐために、ペンネームないしハンドルネームを使うことも、特にネット空間では推奨されるのかもしれないが、それは私の気質に適っていないので、最初はじめから選択肢から除外している。トルストイが文書に著名する時、「レフ・トルストイ」と力強く記したことを思い出せ。芸術というわざによって、神と世界に愛される人物は、本来の名前が相応しいのである。

と、今回はいろいろと泣き言を書いてしまったが、このブログは時間と体力さえあれば、頻繁に更新することは変わらない。私の文筆活動のホームページなのである。