清濁併せ呑む

哲学者 森有正の情婦による回想記メモワール

そう言ったら著者の栃折久美子に怒られそうだが、相方の森有正は否定しないだろう。「不倫は恋愛のもっとも純粋な形式である」と、彼はどこかの定義に書いていたはずである。

本書には辻邦生など、森が生前親しくしていた人々が等身大の姿で出てくる。辻の評論・回想記に『森有正:感覚のめざすもの』というものがあるが、こちらは小説家のペンを通して析出された哲学者の姿だが、栃折久美子の『森有正先生のこと』は装幀家が人生の黄昏にようやく綴った等身大の男の姿である。その不慣れな筆致からは、森の他人の厚意に頼らざるをえない生き方、ある種の常識外れ、金遣いの荒さなどが伝わってくる。気難しい、わがままな人間だったことは確かだ。

臼井先生は心配して、私をさそって早めに会場を出て、新宿の酔心へ連れて行ってくださった。

「謎を残して死んだね。」

何と答えたか覚えていない。

「辰野隆さんと渡辺一夫さんが、長い間かかって考えたが、結局、わからん、ということだったそうだ。なぜか最後には、みんな金のことが出てくるそうなんだね。何だったんだろうね、あの人は。」

私が森有正から倣ったことは、人は己の人生を生きようとすれば、常軌を外れざるをえないという事実である。そのためには勇気と覚悟が必要だし、人の厚意に頼らざるをえない場面も多い。金を無心する時もあるだろう。清濁併せ呑み、己の人生を生き抜いてしまった森有正は、私の中で偉大な哲学者で在り続けるのである。

経済学入門

経済学を勉強している。今、読んでいるのは、N・グレゴリー・マンキュー『マンキュー入門経済学』だ。ケインズの『一般理論』の予習のために読み始めたが、たぶん、入門書だけではケインズに太刀打ちできないから、ミクロ経済学とマクロ経済学の教科書が必要になるだろう。日曜日に例によって池袋に行くので、ジュンク堂で買い求めよう。

日常生活の様々な出来事や、人生のターニングポイントなど、経済学で説明できることは余りに多い。

たとえば、今年度、私が介護業界から出版/新聞業界に転職したのは、単に労働が辛いという主観的、肉体的理由では説明できない。そこには経済的な理由がある。低い生産性とそれに伴う低賃金、そしてイノベーションの不在。これだけでも説明になるが、不十分である。経済は、労働市場は閉じた体系ではない。介護等福祉産業を他の産業と並べて比較しなければならない。

余談だが、私は去年、アルバイトで介護労働をしていた時、かつて私にいろいろ目を掛けてくれた編集者が家を買ったことを知った。私は利用者をベッドに移乗したあと、歯ぎしりして「絶対に出版に戻ってやる」と、同僚に堅く誓ったものだ。

さて、私が介護労働をしながら貧困に喘いでいる時、比較対照したのは出版/WEBなどの情報産業である。知的財産権(この勉強もしなければならない)を武器に、コンテンツがコンテンツを、コンテンツが価値を生み出す商売である。介護の場合、腰に負担の掛からない移乗方法を覚えたり、オムツ交換が早くなったとしても、上昇する生産性はたかが知れているが、出版の場合、うれしい、たのしい、大好きなアイディアが生れた場合、向上する生産性は、そのメディアが流通する市場規模に相当する。否、それを超える可能性を秘めている。生産性とは一定の労働を投下した時の価値の生産高である。昨今、出版業は斜陽産業と言われているが、私は今も無限の可能性を秘めていると思った。実際に再びこの業界に身を置いてみると、私は編集者ではなく、記者になっていた。

記者と編集者

編集者は待つのが仕事である。しかし、私は待つのが嫌いである。

昔、文芸の出版社で編集者として雇われていたとき、隣に坐っている社長が言った。「君は編集者って感じじゃないよなぁ」

その社長の言葉は正しくて、今、私が勤めている会社にも編集者はいるけど、記者の私達と根本的に仕事の仕方が違うと感じる。編集者は待つが、記者は動く。多動性の気がある私はたぶん、後者の方が向いているのだ。

先日、編集者の友達と酒席を共にする機会があったが、我/彼の違いを悟らずにはいられなかった。それは悪い意味ではなくて、働き方、考え方の次元のことである。彼等と話していると、やっぱり、私は編集者にはなれないな、と思う。昔、社長が言ったことが実現した。正解だったのである。

なので、私は今後、編集者になることはないと思う。少し前は転職活動で何としても出版業界に戻りたかったから、面接で「編集者にもなれますよ」というような顔をしていたが、ことごとく落とされた。先方の目が正しかったのである。記者ライターを求めている会社が私を温かく迎えてくれたのである。今後、もし何かの都合で編集者になることを求められたら、それは丁重にお断りして、フリーライターとしてアルバイトをしながら書き続けるだけだ。つまり、今までと何も変わらないのである。

知識と経験

午前2時起床。正直、眠いし、睡眠時間も足りていないが、布団に横たわってもしょうがないので、起床する。

家でも会社でも書いている。その質はともかくとして、とにかく手を動かしている。私にとって書くことは生きることであり、ゆえにライターは私の天職なのである(エディターではない)。

しかし、執筆を支えるのは人生の経験だけではなくて、やはり、読書による知識が必要不可欠である。経験主義者のヒューマニストには申し訳ないが、やはり、執筆で大事なのは読書を通じた学知である。もちろん、知識だけでは不十分で、それを総合ないし統合するためには経験が必要になるが、要するに知識と経験は執筆におけるアルファとオメガなのである。特に経験はその人の魂を形作るが(同時に傷つけるが)、知識は魂を養い、癒すのである。経験は活動の記録であり、知識はその資料である。

今、私にはライターとして活動するための読書量が決定的に足りない。職人として必要なので、さすがに『聖書』で足れり、とは言えない。書きながら読む。紙にペンを走らせると同時に頁に目を走らせなければならない。とにかくジッとしていられない。動き続けるのである。

まずは書斎の本を山を崩すか。今年は根本的な変革を強いられそうである。

和解

1年くらい仲違いしていた人と仲直りした。電話で話しているうちに、いろいろな誤解が解けたと思う。彼が先に私に救いの手を差し伸べてくれた。私はただそれに縋ったに過ぎない。人として、私は本当に未熟だと思う。和解(赦し)は嬉しく、楽しい。キリストはこの心的/神的過程に知悉していたのだと思う。だから、人々に赦すこと、和解することを勧めたのだ。

今日は池袋で聖餐式の後に会食。教会という神に集う新しき社会は、ひとえに、貧しく、寂しい人々を助けるために存在する。そんな単純な事実に気づかされた。

その後、ジュンク堂に新聞の書評に取り上げる本を探しに行く。選択に難航する……。今後、ライター/ジャーナリストとして働き続けるためには、古典はもとより、最新のトレンドも掴む必要があると痛感した。毎週の礼拝に加えて、書店通いの習慣を己に課すことにしよう。

ディアナ・カウンター

昨日、悪意のある電子メールが届く。私は悪には然るべき手段で対処するので、もう二度とこのような行為は繰り返さないように。

さて、気を取り直そう。

今日は家に引き籠る。本をどっさり読んで過ごす。充電の日だ。

将来、このブログとは別に自分でニュースサイトを立ち上げたい、という思いを抱く。最初はWordPressが必要になるかな、と思っていたが、はてなブログでもカスタマイズすれば、十分可能であることに気づく。私が主筆(編集長)になって、多様な執筆陣によるホットな記事を掲載できれば楽しいだろう。主題は政治、政治学なので、昔の仲間を集めても楽しいだろう。サイトの名称は『POLITAIA』あたりが宜しいのではないか。今から始めてもいいだろう。初めに行いありきだ。

会社と個人

昨日は校了日だったが、定時でさっさと帰る。リーベと鳥貴族で夕食を摂ったあと、家に帰ると、そのまま寝落ちしてしまった。寝不足、そして、疲れが溜まっていたんだと思う。

朝、目が覚めると、久しぶりに熟睡した感じで爽快である。二日酔もない。こんな健康的な朝が日々が続けば、長生きできると思った。リーベがいなくても、一人で健康的に過ごすことができればいいのだが。とりあえず、酒を音楽を聴きながら、だらだら飲む悪習は辞めて、ナイトキャップとして、ウイスキーを2、3杯嗜んだら、薬を飲んですみやかに寝てしまおう。メリハリのある生活習慣が大切なんだ。

会社では案外ノンビリしているが、記者ライターとして第一線に立ち続けるために、公私ともに緊張感をもって仕事をしていこう。だから、会社の案件とは別に、自分本来の関心を大切にしなければならない。平日の朝と夜はもちろん、休日もそのために勉強をすること、また、実際に仕事をすることだ。

私は今の会社に入社したあとも、個人事業を廃業した訳ではない。だから、会社と利益が相反しないかぎり、個人としていつでも活動できるのである(このブログもその一環だ)。会社があるから私があるのではない。その前に私はすでに記者ライターとして存在していたのだ。