重心の置き所

この頃、筆力がとみに落ちている。原因のひとつとして、私の取材の厚みが足りないのかもしれないが、それ以上に文章作成能力が落ちている。文体の凝集力が明らかに落ちているが、業界新聞の記事はそんなものは求めていないので、この点は心配しなくてもよい。

ただ、私はインタビュー、ルポルタージュが得意なので、客観的事実を淡々と記述する普通の記事は苦手という所がある。——大丈夫だろうか。

とにかく、今はジャーナリストとして修業する時期と前向きに捉えるしかない。これがライターとは似て非なる職業だということはよく分かった。ライターは自分中心に書くが、ジャーナリストは媒体を中心にして書く。重心の置き方がまるで違うのである。

しかし、「ライターで挫折したから、今ここでサラリーマンやっているんじゃないの?」と、今日上司に言われたが、私はまだライターになる/生きることを諦めた訳ではない。今は雌伏の時だ、と言いたい所だが、今自分が手がけている仕事が、己の本質を表現、体現していないと見るのは不幸なので、そういう傲慢な見方は控えたい。

世間ないし社会に時に媚びたり、時に糺したりするジャーナリストの仕事も、私の本質に間違いなく適っているのだ。

午後の懈怠

まったくやる気が起きない。体調不良で、この週末は、家に引き籠もっているのだが、その間、肉体的な不調と引き換えに精神的には安定していたので、抗精神病薬を飲むのを怠った。すると、どうだろう——脳内の神経細胞間のドパピン濃度が低下したのか、何事に対しても、まるでやる気が起きなくなってしまったのである。書く気もなければ、読む気もならない。酒も飲みたくない。ただ蒲団に寝そべって、時が過ぎるのを待つだけである。実の所、この原稿を書くために奮起して、近所の酒屋からワンコインの葡萄酒を一本買ってきて、冷蔵庫でキンキンに冷やして、ちびちびやっているが、まったく美味くない。一杯で限界である。

特に目立って抑鬱の症状はないが、かといって、生きる気力もない。こういうのも広い意味で躁鬱病の症状なんだと思う。しかし、そもそも仕事と人生はそんなにやる気を促すたちのものなのだろうか?と思うこの頃である。

葡萄酒を飲んでも不味い

修行僧

45歳になったら、ジャーナリストを引退して、再びフリーライターに転身したい。世間の、社会の情報を集めて、それを表すことに腐心するのではなくて、書くこと、自分の文章そのものに正面から向き合いたい。己のエゴイズムを見つめる——そのためにより自己中心的になるということだ。

私の存在の本質はあまり社会的にできていない。多分、どこまでも自分本位に生きざるをえない。ならば、それに素直に従って、人生の終末に向かう以外ないではないか。いい歳をしたオッサンがいつまでも修行とか言っているのはみっともないと思われるかもしれないが、それは違う。自分に正直になること、素直になることは、己の本質から離反した経験を含めて、それなりに成熟しなければできない。その年齢が私にとって45歳なのである。つまり、普通の人よりも少し早めに終活をするようなものである。店じまい、ならぬ、人じまい、という感じだろうか。

修行には金と時間が要る。そのためには貯金もしなければならないし、経営にも長じている必要がある。また、体力も要るので、酒と煙草を控えて(ほどほどにして)、今よりも痩せなければならない。敬愛する牧師が自身のことを「キリスト教の修行僧」と言い表していた。私もそれに違いないが、私の場合は「文学の修行僧」に変容しなければならない。

新聞記者

ようやく、新聞記者ジャーナリストとしてやっていく覚悟がついた。今の業界新聞社に就職して5ヶ月が経つから、ちょうどいい頃合いだ。

もちろん、私は文学者ライターであるけど、会社で働いている間は、その鳴りは潜めていようと思う。個人よりも組織優先、文章よりも紙面優先である。

だから、記事を書いている間は、文体の彫琢力はおそらく低下するだろう。おそらく、存在の耐えられない軽さのレベルにまで至るだろう。思考と文体の存在拘束性。でも、それは仕方がないことである。

今の新聞記者ジャーナリストとして働いている時間は、将来、小説家ライターとして独立するための糧になるだろう。そのために小説の研究と実践も欠かすことができないが、今はひとえに求めて与えらえた新聞ジャーナリズムの仕事を楽しみたい。

Chapel Champ 2023

8月26日、27日に立教大学のチャペル・キャンプに行った。

しかし、清里への鈍行列車の旅が身体に堪えたのか、その後、腰と背中を痛めて、今は療養中である(しかし、会社に行って仕事はしている)。

キャンプでは私は我がままを言って、『ソロモンの雅歌』の学習プログラムを担当させてもらった。

キリスト者は当然、『旧約聖書』を『新約聖書』の観点から、つまり、イエス・キリストの存在を前提にして読むことになる。それで多くの発見がある訳だが、今回はプログラムの運営を通じて、チャプレンのトーマス・プラント先生と信頼関係が生まれたのが良かった。『聖書』の学びを通じて、このような奇蹟が生まれるのは嬉しいことである。

I am with Christ, We are with Christ.

via media

朝4時。虫の音が聞こえる。秋の気配がする。サラリーマンになってから、生活リズムがすっかり朝方になった。学生の頃と同じ、否、それよりも規則正しいと言えるだろう。介護で夜勤をしていた頃、また、それに乗じて、時々夜遊びをしていた時分がいかに本来の生活から外れていたことが分かる。もともと私は杓子定規のように生活規範を遵守する人間なのだ。今後、私は夜勤をしないし、変則シフト勤務もしないだろう(ただし、作品のネタ作りのためにたまに経験するのもいいだろう)。

新聞記者ジャーナリストに転身したのを機に、このような気軽な小品を書く小説家ライターとしての筆力が衰えている。制約は多かったが、介護をしながら、『山谷の基督』を書いていた頃は自分でも必死で、いま読み返しても文章に力があると思う。キリスト教を通じて、私は神の道に立ち返ったように、今度は文学を通じて、私は人々の道に立ち返らなければならない。それは極度の人間好きと人間嫌いが同居した矛盾した精神を内蔵している。片方に振れるのではなく、中道ヴィア・メディアを歩み通したい。

狂気と向き合う

昔、老人ホームの介護福祉士ケアワーカーを辞めて、記者ライターとして仕事を始める時、大学の先輩に不意に言われた。

「それじゃあ、兼子くんは自分の狂気と向き合うんだね」

最初は何のことかと思ったが、文学者ライター新聞記者ジャーナリストの仕事の性質の違いを、ここまで見事に言い当てた言はない。その人はプログラマをしていて、文学的には無知だと思っていたから、人間は分からないものである。

狂気に向き合う。絶えず狂気には曝されているけど、それときちんと向き合っていない。それが私の生活の実情である。

40歳、あるいは45歳を過ぎたら、私は自身の狂気と正面から向き合おう。つまり、小説家ライターとして修業をするということである。