社会の汚穢の中で

昨日は仲よしの同僚とシフトが一緒だったので、帰りに関屋駅前の立ち飲み屋でイッパイやった。私たちの恒例の〈屋外ミーティング〉である。仕事の愚痴は出るには出るが、話題が新鮮で聞いていて飽きないのである。私は新聞は購読していないが、案外、ゴシップ好きな性格なのかもしれない。昔、ミニコミ紙の記者として働いたことがある。もしかすると、ジャーナリストの才能があるのではないか、と一瞬うぬぼれる。

しかし、いまは介護の仕事をしている。世間的には介護士と呼ばれている。勤務先は特別養護老人ホームである。

介護に転職したことによって、私の出版人としての経歴は停止した。それは同時に私のスランプの時期だった。私は既成の会社を離れて、独自に文学を創造しなければならなかった。私は内向することをやめて、他者と交流する必要に迫られた。生活のために社会で働かなければならない。それだけが、健康に、快活に生きる方法なのだ。

介護は私を鍛えてくれた。人からは「向いている」と言われたけれど、私は介護をするのが嫌だった。でも、仕事だからした。最近のヤングたちは好きなことを仕事にしたい、畢竟、好きなことしかしたくない、と言っているけれど、私から見れば甘すぎる。私の尊敬する作家の一人、辻邦生にもその傾向がある。嫌なことをしても人は鍛えられるのだ。そもそも好きという感情、すなわち愛は、いつ憎しみに転化するか分からない代物である。もしかしたら、冷めてしまう、飽きてしまうかもしれない。芥川龍之介が「芋粥」で繰り返し説いている。彼は早熟の天才であった(そのために早世してしまったのかもしれない)。

特別養護老人ホームは郊外にある。社会の中に存在しながら、社会から隔離されているのである。 「監獄より悪い」 同僚がある日、ぼそっと言った。