俵万智は歌人として知られている。『サラダ記念日』(1987年)は与謝野晶子『みだれ髪』(1901年)の再来と言われた。歌人はもちろん、歌人以外の普通の人々に読まれたからだ。小説は普通の人に読まれる。しかし、歌集は普通の人は読まない。歌人にしか読まれないのだ。しかも、売り買いされることはほとんどない。贈呈用で部数の大半が捌けてしまう。通常は300-500部の自費出版である。それにくらべると、『サラダ記念日』は230万部を突破した。のちに文庫化されたので、いまも増刷は続いているだろう。俵万智の文体は“ライトヴァース”などいろいろ言われたけれども、それは彼女の個性と時代をよく表現していた。実際、彼女の短歌は愛誦された。広く、好んで詠まれたのである。
しかし、俵万智は短歌だけを書いていたわけではなかった。小説も書いていたのである。『トリアングル』(2004年)である。その構成は散文(物語=小説)と韻文(歌=短歌)を交互に収めている。『伊勢物語』の伝統を継ぐ、現代の歌物語である。
主人公の薫里は33歳のフリーライターである。45歳のフリーカメラマンのMと8年越しの恋愛をしている。しかし、彼には家庭がある。妻と娘がいる。いわゆる不倫である。ところが、最近、26歳の音楽志望のフリーター、圭ちゃんと肉体関係になった。そこから物語ははじまる——。私が書くと、まるでドロドロの人間模様ではないか(しかし、それが小説の醍醐味であるような気がする。三角関係はロマンの古典である)。
話を元に戻そう。薫里とMの恋愛は陽だまりのような、穏やかで、深い信頼関係で結ばれている。薫里はMに離婚や結婚を迫ったりはしない。Mも同様である。結婚という社会契約は二人にとって重要ではない。末永くこの恋愛が続くことを望んでいるのだ。しかし、年下の圭ちゃんは違う。彼は薫里と「付き合う」こと。ゆくゆくは結婚することを求める。青年の至極普通の欲求であるが、この価値観の相違が、薫里との溝を深くしていく。結局、薫里は圭ちゃんを捨てて、Mとの単一な関係に戻っていく。そして、薫里は予感した。いつか、Mの子供を産むのではないか、と。
この小説は重要な個所で「階段」の比喩が使われている。私たちは普通、物事を上昇のイメージで捉えがちだ。たとえば昇進などである。恋愛だって例外ではない。恋愛の先に結婚があると考えられている。あるいは結婚しなくても、恋愛には上昇と下降がつきものだと思われている。薫里はその思考様式を否定する。過去の苦い経験から、「歩道橋」を上って下りるような恋愛はしたくないのだ。彼女の理想は階段の踊り場で、永遠に恋愛を繰り広げることである。そこには上昇も下降もない。薫里は歩くのは苦手なのだ。
圭ちゃんと別れたあと、薫里がMの子供を産むのではないかという予感は、二人の関係の進展なのではないか、恋愛の成就、上昇なのではないか、という疑問はこれから考えればいいだろう。答えは出るかもしれないし、出ないかもしれない。それでも、薫里のいつまでも恋愛を続けたいという、ひたむきな願いは、現代の一夫一婦制、マイホーム主義が抑圧してしまった、人間の細やかな情緒を再び見出すだろう。この小説は現代を書いているのに、まるで王朝時代にタイムスリップした印象を受ける。『源氏物語』を思い出すのだ。やはり、本書は現代の歌物語なのである。