割り切れないもの

宮本輝の名を知ったのはいつだろう? たしか新所沢の今はなき、Cafe Omberの「文学カフェ」で同席した御婦人に教えてもらったような気がする。彼女は長年のファンであり、パニック障害など、さまざまな困難を克服した宮本輝を賞賛していたのだが、あれから5年近くが経過した。この度、積読になっていた『錦繍』と『胸の香り』を読了した。紐解いたのは、中秋を過ぎたので秋らしいものを読みたい、そんな理由だった。しかし、先日、須賀敦子の『トリエステの坂道』を読んで以来、近頃は思想書、その他雑書ばかり読んでいた私はにわかに文学を、それも純文学を読みたい、という欲求に駆られるようになった。するとどうだろう? 私は久しぶりに良質な小説経験を味わったのだった。

宮本輝の小説は、事業に、商売に失敗して、零落する人間、酒と女に溺れて失踪する人間、一家離散した挙句、親戚中をたらい回しにされる所在ない人間が描かれる。私は作者の経歴、実生活は寡聞にして知らないが(今は敢えて知らないようにしている)、この作者の執拗さは、彼の中で解決しがたい心的外傷トラウマになっていると察する。書くこと、それも小説を書くことでしか、彼はこの古傷を治療することはできないのではないか。それは果てしない絶望的な取り組みであり、それを一生の仕事ライフワークとするのは小説家の業なのだろう。

先日、夜勤をしている時に、同僚と宮本輝について話した。「三島由紀夫英雄ヒーローを描くけど、宮本輝は違う。市井の平凡な人間を描いている」と彼は言った。この指摘に私は思わず膝を打った。確かに芸術家は市民に比べてアブノーマルな生活をしている。そのため彼/彼女は特殊な、あるいは異常な人間を描きがちなのだ。しかし、宮本輝はそうならなかった。彼は印刷屋のおやじとビールを飲んだあと、居間に横になってテレビを観る人間を描く。しかし、彼は平凡な人間の中に修羅を見出すのである。

宮本輝の小説を読んでいると、小説を読む楽しみ、文学を読む楽しみを存分に味わうことができる。その訳を考えてみると、単一の思想や理論では割り切れない事物の描写の豊かさだと気づく。小説に思想はあっていい(むしろ、私はそのような小説の方が好きである)。しかし、思想、理論では割り切れないものを書くこと、読むことが文学の楽しみではないかと思うのだ。『錦繍』の有馬靖明の情婦の描写がたまらなく愛おしい。

令子があなたの手紙を全部読み終えたのは十二時を廻った頃でした。手紙の束を元の机の抽斗にしまうと、令子は立ちあがって部屋の明かりを消し、台所の明かりを点けて、冷蔵庫の中から何やら残り物らしきものを出し、それをおかずに食事を始めました。私はテレビを消し、起きあがって令子の横の椅子に坐り、煙草に火をつけました。令子は泣いていました。泣きながら、冷や奴を食べ、マヨネーズを塗りたくったハムにかぶりつき、御飯を頬張りました。そうしながら、手の甲で涙をぬぐい、鼻をすすりました。ぬぐってもぬぐっても、令子の丸い目からは涙が流れ、白い頬を伝ってテーブルの上に落ちて行きました。