川越
高校生の頃、私は軍人か政治家になりたかった。司馬遼太郎『坂の上の雲』の秋山兄弟、『竜馬がゆく』の維新志士達に憧れていた。戦後は、日本国憲法・第66条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定されているから、現役の自衛官が内閣を組閣することは許されないが、戦前は(おそらく大正以降)、軍人になることは、政治家になることの近道の一つだった(この点、社会主義者が政治家になる方が遥かに苦難が多かった)。私は自分の志に従って、防衛大学校を受験したが、幸か不幸か、不合格だった。私は忸怩たる思いで、立教大学・法学部・政治学科に入学した。
池袋
大学入学当初、世間的に言えば、私は右翼だった。軍国主義者でも、天皇主義者でもないが、
所沢
卒業後、1年間、嘱託の大学職員をしたあと、私は新聞屋に就職してミニコミ紙の
東村山
その日の午後、私は句集の本文を校正していた。新聞屋を辞めた私は文芸系の出版社(短歌、俳句などの短詩型文学を専門にしていた)に就職したが、転職と同時に私の職業は
「君、短歌や俳句が文学だと思うかい?」
「私達の生活を少しでも改良すると思いますが」
「小説と詩は革命を起こすだろう。しかし、短歌と俳句にそれができるか?」
彼は出版社を始める前、銀座で画廊を営んでいた。
「毎月、通帳の残高が300万から500万、そして、1000万と増えていくだろう。そうすると、うわぁー、こんなことをしているから、まともな物が書けないんだ、て思うんだよ」
彼は一時期、会社をたたんで、埼玉県の寄居町に引き籠っていた。
「寄居で何をしていたんですか?」
「小説を書いてたんだよ!」
社長には本当に飲みに連れて行かれた。私が酒を本格的に覚えたのはこの頃である(しかし、酒の味は小学生の頃から知っていた)。社長は私を本当にかわいがったが、同時に私を本当にいじめた。喧嘩と和解を繰り返した挙句、私はこの会社を辞めてしまった。
築地
私は凸版印刷から届いた『週刊朝日』の刷り出しを、7階の編集部付属の校正係に渡した。私は8階の業務部という部署で働いていた。オフィスの窓から築地市場が見えた。
東村山の出版社を辞めた後、私は築地の某新聞社の子会社の出版社に、派遣社員として潜り込んでいた。仕事の内容は書籍と雑誌の用紙の選択、計算、発注、——その他雑用。本作りの理解はますます深めたけれども、本を書く仕事からはますます遠ざかっているように思えた。——私は記者でも、編集者でもなく、事務員に過ぎなくなった。それに、こんな半端仕事では遅かれ早かれ食えなくなることは明白だった。
高度経済成長、バブル景気の面影はもはや霞んでいるにも関わらず、その会社では出版記念パーティーなど、ことあるごとに宴会をやった(当時はアベノミクスの最盛期だった)。日本酒(取引先の業者が獺祭を持ってきてくれた)、ワイン、シャンパン、ウイスキー……何でも開けた。そして、空けた。私が酒に溺れたのはこの頃である(しかし、今に比べれば児戯に等しい。序の口である)。酔っ払って、渡り廊下を駆け抜けたあと、タクシーを拾って成田山に行ったこともあった。ちなみに、私は埼玉県所沢市から東京都葛飾区に引っ越していた。仕事の機会を見つけるために。
週末が暇になったので、短歌の結社〈塔〉に入会した。私が短歌を始めたきっかけは、ライナー・マリア・リルケの研究者の高安国世が歌人であることを知ったためである。散文詩の無秩序を蔑して、定型詩の秩序に憧れたこともある。しかし、最大の理由は、歌会を含めた人間的紐帯であった。
定例の歌会は浅草橋の区民会館で行われた。事前に提出した一首の詠草を、作者の名前を伏せて縦横無尽に論じ合う。もともとゼミナールが好きな私にとって、歌会のこの形式は楽しかった。また、(人と)作品を、一方的に批判するのではなく、同時に褒めることを覚えたのはこの頃である。私のこの心得は文学にとどまらず、今でも人間関係を作るために役立っているはずである。同人誌の『塔』には私の短歌が載った。「アチチ!」私の書いた文章が再び活字になった。
このまま短歌の結社の中で文名を高めて、歌人兼評論家として、歌壇と文壇に打って出る——とすれば、格好いいのだが、幸か不幸か、私はそうならなかった。私は歌人としての資質が決定的に欠けていた。私は自分が歌人だと思ったことは一度もなかった。それに当時、シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド』や、中村真一郎『頼山陽とその時代』などを読んで、評伝にも目が開かれていた。私は自分は
「あなたは病気です。精神科に行ってください」
当時、知り合った情婦が電話越しに私に言った。
竹ノ塚
池袋で3ヶ月の職業訓練を受けた後、私は足立区竹ノ塚(最寄駅は竹ノ塚だが、精確な住所は伊興)の特別養護老人ホームで、
ある日の晩、私は葛飾区中央図書館で『斎藤和英大辞典』を紐解いた。「政治学」の訳語に"politics"、「政治学者」の訳語に"politician"と書かれていた。その時、私は自分が