Political Writer

川越

高校生の頃、私は軍人か政治家になりたかった。司馬遼太郎坂の上の雲』の秋山兄弟、『竜馬がゆく』の維新志士達に憧れていた。戦後は、日本国憲法・第66条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定されているから、現役の自衛官が内閣を組閣することは許されないが、戦前は(おそらく大正以降)、軍人になることは、政治家になることの近道の一つだった(この点、社会主義者が政治家になる方が遥かに苦難が多かった)。私は自分の志に従って、防衛大学校を受験したが、幸か不幸か、不合格だった。私は忸怩たる思いで、立教大学・法学部・政治学科に入学した。

池袋

大学入学当初、世間的に言えば、私は右翼だった。軍国主義者でも、天皇主義者でもないが、愛国者ナショナリストだったのである。しかし、大学の4年間と、それに続く、大学院の2年間で、私は見事に左翼に「改造」されていた。私は母校の教員と同じ市民社会民主主義者シヴィル・ソーシャル・デモクラット1だったが、その根底には、ロマン主義キリスト教が息づいていた。私の政治学の最初のテキストは、プラトンの『国家』でも、アリストテレスの『政治学』でもなく、『新約聖書』だったのである。理解と共感——これが私の政治学の最大のテーマになった。そして、その理想は、マルクスの『資本論』でもなく、ネグリとハートの『マルチチュード』でもなく、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に受け継がれていたのである。私の関心が政治学から文学に移行し始めた。しかし、同時に神経衰弱も進行し始めた。私は軟派な文学青年になってしまったのである。

所沢

卒業後、1年間、嘱託の大学職員をしたあと、私は新聞屋に就職してミニコミ紙の記者ライターを始めた。仕事は月1回発行する地域新聞に記事を書き、広告を集め、版下を作成することだった。「新聞」と言っても、『読売新聞』あるいは『日本経済新聞』を購読するとオマケに貰える、事実上、販売促進物だったが、4頁カラーのタブロイド判は今見ても豪華で、人目を惹くものだった。私は新聞という媒体メディアで、自分の文章が活字化される快楽を覚えた。それは自尊心と羞恥心がないまぜになった経験だった。ある時は人に見せて廻りたいこともあるし、ある時は「あっちゃー」と嘆いて、人目につかないように燃やすか、埋めてしまいたいこともある。インターネットは個人を強化エンパワーメントするうえで、極めて有効な仕組みだが、印刷物に匹敵する強烈な感情は持ちにくいのではないか。インターネットは安い、それに何度でも修正が可能である。印刷は高い、それに修正は不可能である。印刷には紙とインクが必要だ。——要するに金がかかっているのである。私が人に見せても恥ずかしくない仕事をする日は来るのだろうか? 新聞屋は1年半くらいで辞めてしまった。不眠症に苦しめられたことと(それは本質的には躁鬱病だった)、徹夜の連続の過酷な労働条件に耐えられなかったのだ(私は裁量労働制の怖ろしさを知った)。また、不本意自民党を礼賛する記事を書かせられるのも不快だった。しかし、この仕事で私は取材の仕方、新聞のレイアウトの仕方、写真のトリミングの仕方を学んだ。それは私の財産になっている。アレ、文章の書き方は? それは結局は自分次第だ。他人から、組織から、文章のイロハを叩きこまれても、それは画一的な生産物プロダクツに過ぎない。「文は人なり」。個性は文章の魂である。私の勤めていた新聞屋の代表取締役も、昨年、他界された。彼はその昔、漫画家を生業にしていて、筆名を「三町半左」と言った。人使いは荒いが、人好きのする、楽しい人だった。合掌——。

東村山

その日の午後、私は句集の本文を校正していた。新聞屋を辞めた私は文芸系の出版社(短歌、俳句などの短詩型文学を専門にしていた)に就職したが、転職と同時に私の職業は記者ライターから編集者エディターに変わっていた。自分が書くのではなく、他人に書かせるのである。社長を含めた社員6名の出版社で、西日を浴びながら、自費出版の句集を校正していると、どうしようもない寂しさを覚えた。今後、私の書く文章は活字にならないのではないか。いや、もはや文章を書くことはないのではないか——。しかし、面白いことに、その出版社の社長は武者小路実篤の弟子で、元・小説家志望だった。彼は赤提灯の下に私を連れて行き、焼鳥を頬張りながら言った。

「君、短歌や俳句が文学だと思うかい?」

「私達の生活を少しでも改良すると思いますが」

「小説と詩は革命を起こすだろう。しかし、短歌と俳句にそれができるか?」

彼は出版社を始める前、銀座で画廊を営んでいた。

「毎月、通帳の残高が300万から500万、そして、1000万と増えていくだろう。そうすると、うわぁー、こんなことをしているから、まともな物が書けないんだ、て思うんだよ」

彼は一時期、会社をたたんで、埼玉県の寄居町に引き籠っていた。

「寄居で何をしていたんですか?」

「小説を書いてたんだよ!」

社長には本当に飲みに連れて行かれた。私が酒を本格的に覚えたのはこの頃である(しかし、酒の味は小学生の頃から知っていた)。社長は私を本当にかわいがったが、同時に私を本当にいじめた。喧嘩と和解を繰り返した挙句、私はこの会社を辞めてしまった。

築地

私は凸版印刷から届いた『週刊朝日』の刷り出しを、7階の編集部付属の校正係に渡した。私は8階の業務部という部署で働いていた。オフィスの窓から築地市場が見えた。

東村山の出版社を辞めた後、私は築地の某新聞社の子会社の出版社に、派遣社員として潜り込んでいた。仕事の内容は書籍と雑誌の用紙の選択、計算、発注、——その他雑用。本作りの理解はますます深めたけれども、本を書く仕事からはますます遠ざかっているように思えた。——私は記者でも、編集者でもなく、事務員に過ぎなくなった。それに、こんな半端仕事では遅かれ早かれ食えなくなることは明白だった。

高度経済成長、バブル景気の面影はもはや霞んでいるにも関わらず、その会社では出版記念パーティーなど、ことあるごとに宴会をやった(当時はアベノミクスの最盛期だった)。日本酒(取引先の業者が獺祭を持ってきてくれた)、ワイン、シャンパン、ウイスキー……何でも開けた。そして、空けた。私が酒に溺れたのはこの頃である(しかし、今に比べれば児戯に等しい。序の口である)。酔っ払って、渡り廊下を駆け抜けたあと、タクシーを拾って成田山に行ったこともあった。ちなみに、私は埼玉県所沢市から東京都葛飾区に引っ越していた。仕事の機会を見つけるために。

週末が暇になったので、短歌の結社〈塔〉に入会した。私が短歌を始めたきっかけは、ライナー・マリア・リルケの研究者の高安国世が歌人であることを知ったためである。散文詩の無秩序を蔑して、定型詩の秩序に憧れたこともある。しかし、最大の理由は、歌会を含めた人間的紐帯であった。

定例の歌会は浅草橋の区民会館で行われた。事前に提出した一首の詠草を、作者の名前を伏せて縦横無尽に論じ合う。もともとゼミナールが好きな私にとって、歌会のこの形式は楽しかった。また、(人と)作品を、一方的に批判するのではなく、同時に褒めることを覚えたのはこの頃である。私のこの心得は文学にとどまらず、今でも人間関係を作るために役立っているはずである。同人誌の『塔』には私の短歌が載った。「アチチ!」私の書いた文章が再び活字になった。

このまま短歌の結社の中で文名を高めて、歌人兼評論家として、歌壇と文壇に打って出る——とすれば、格好いいのだが、幸か不幸か、私はそうならなかった。私は歌人としての資質が決定的に欠けていた。私は自分が歌人だと思ったことは一度もなかった。それに当時、シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド』や、中村真一郎頼山陽とその時代』などを読んで、評伝にも目が開かれていた。私は自分は文学者ライターではないかと思った。毎月、義務的に同人誌を読むのも苦痛だった。私はもっと自由に読書がしたかった。広大な知の領域が私の前に開かれていた。躁鬱病の進行によって短歌が書けなくなったのを機に、私は〈塔〉を辞めてしまった。

「あなたは病気です。精神科に行ってください」

当時、知り合った情婦が電話越しに私に言った。

竹ノ塚

池袋で3ヶ月の職業訓練を受けた後、私は足立区竹ノ塚(最寄駅は竹ノ塚だが、精確な住所は伊興)の特別養護老人ホームで、介護職ケア・ワーカーとして働き始めた。人生は続くよ、どこまでも。今の生活の始まりである。

ある日の晩、私は葛飾区中央図書館で『斎藤和英大辞典』を紐解いた。「政治学」の訳語に"politics"、「政治学者」の訳語に"politician"と書かれていた。その時、私は自分が政治学ポリティシャンだと思った。政治家ポリティシャンと言ってもいいだろう。最良の政治学者が最良の政治家であるというのがプラトンの認識であった。私は高校生の頃に抱いた夢が現在まで継続していると悟った。私は政治学を愛している。私は文士ライター、就中、政治的文士ポリティカル・ライターである。三十代になれば、普通、人は自分の才能を自覚して、日々、落ち着いて過ごすはずである。『月と6ペンス』のように、夢を実現するために、妻子を捨てて出奔することは考えられないことである。しかし、私は今、自分の才能を見極めている。今後の人生の目標が定まったような気がした。


  1. 20世紀に破産した社会主義を救うためにインテリたちが修正に次ぐ修正を施したハリボテのような概念。