確信犯

哲学の始祖 ソクラテスは市中の若者をつかまえて、「無知は罪である」と語ったそうだ。この罪に関するギリシア的理解は、20世紀の哲学者 ハンナ・アレントも受け継いでいて、第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ強制収容所ユダヤ人を機械的に送り込み続けた、ナチスのアドルフ・アイヒマンを「凡庸な悪」と名づけた。思考の欠如、想像力の貧困が悪を招くと、彼女は見た。しかし、この見解は私にとって日和見のように思えてならない。勉強をすれば、悪を退ける。罪を免れる。いかにもインテリが好きそうな理論だ。正義の知識人の偶像はこうして作られる。

一方、19世紀のデンマークの哲学者、神学者セーレン・キルケゴールは、人間は悪を知りながら、悪を行う存在である、と見た。彼のこの悪ないし罪の理解は、前者のソクラテスギリシア的理解に対して、キリスト教的罪の概念と言った。この妥当性は私にはまだ分からないけれども、キルケゴールの人間理解は、私の犯罪心理学におけるコペルニクス的転回をもたらした。人間に対する理解が前進した。確信犯の気持ちを分かり始めた。これは小説を書きたい、ルポルタージュを書きたい、と思う私にとって、大いに益する所である。

物心ついた頃から、どうして、私は悪に惹かれるのだろうか? それは私の密かな権力への意志であり、私の悪魔主義の根底には、全知全能の錬金術師に対する憧れがあるのだ。

けれども、昔、私が職場で上司をケムに巻こうとして失敗したときの、同僚の言葉を思い出す。

「まだまだワルにはなれねえな」