二重生活

「で、君は——、僕たちをあんなに楽しませてくれた、セント・ジェームズ・アンド・アルバニーの仕事を辞めてしまったということなのかい?」

「いえ、違います、侯爵。あれは並行しています。と言いますか、こちらのこれが並行しています。私はここにいて、あそこにいます1

故郷のドイツを出て、フランス・パリのホテルでエレベーターボーイとして働いているクルルが、休日、レストランで食事をしていると、それまでホテルの客として遇してきた、ヴェノスタ侯爵と邂逅する場面である。侯爵は労働者のクルルが、高級レストランで食事をしていること、その豪奢な装い、そして、その優美な所作に瞠目したのだ。

虚構の小説から、現実の生活に話を移す。

私は今、東京に住んでいるが、同時に千葉の老人ホームに働きに出ている。私の自己同一性アイデンティティが、千葉の会社の介護職の生活に包摂されることはまったくなくて、東京の私の本来の生活と並行していると感じている。正確には、分裂している、と言うべきか。

私的生活プライベートの本来の語源は、「欠如している」ことを意味するが(人に見られ、聞かれ、語られる機会を奪われている。すなわち、孤独である)、私はこの欠如を、読書と執筆で埋め合わせようとしている。私は東京の生活を、自由と幸福を勝ち取るために使いたい。

ヴェノスタ侯爵は、次のようにクルルを評した。「君にはきっとわかる筈だけど、ここで君に出会ったのは、僕には嬉しいと同じくらい怪しい。知識欲を刺激されるね。『並行している』とか『こことあそこ』とかいう君の言い草には、陰謀めいたところがあるよ、——経験のない者にはね。それを認めたまえよ2


  1. トーマス・マン(岸美光/訳)『詐欺師フェリークス・クルルの告白(下)』光文社古典新訳文庫、2011年、97頁。

  2. トーマス・マン(岸美光/訳)『詐欺師フェリークス・クルルの告白(下)』光文社古典新訳文庫、2011年、99頁。