内村鑑三の経験主義

内村鑑三』の初版は1953年に刊行された。森有正がフランスに留学したのは1950年だが、本書の「解説」によると、それよりも前に書かれたものらしい。フランス留学が、現地に留まるために大学教授の職を辞して、生活を続けたことが、彼に自由な、個性的ユニークな思索を促し、『バビロンの流れのほとりにて』、『遥かなノートル・ダム』などの代表的な作品を記す契機になったことは間違いない。それ以前の著作は、『パスカル』、『ドストエーフスキー覚書』など、先達の思想家についての研究書が主であり、本書もその一つに数えられるが、通読すると分かるように、西洋に行く前後で、彼の思想に断絶がある訳ではない。むしろ、その継続が認められるのである。「約30年前に書いたこの『内村鑑三』を見ると一つにはこの文章と現在の私の「思想」との距離が大きいことといま一つには、私の「心」の秩序が年月の距りにもかかわらずどんなに同一であるかということとに驚くのである1

忌憚なく述べてしまうと、本書の前半は読むべき所が少ない。文章が上滑りしていて、書いている本人が自らの文章を信じていないのではないか。キリスト教徒の歓心を買おうとしているのではないかと疑いたくなる。

しかし、第2章「絶望から歓喜へ」第1節「復活と永生への確信」を境に文章は熱を帯びていく。ああ、森有正を読んでいるな、という気持ちになる。内村鑑三の娘 ルツ子の死について述べた箇所である。彼女は「モー往きます」と言って亡くなった。「死にます」でも、「えます」でもない。彼女の最後の言葉に、内村は魂の不滅を確信した。魂の実在と不滅——プラトンとキリストが肯定し、マルクスニーチェが否定したこの観念が正しいのか、今の私には分からない。しかし、娘の死、という事実が内村鑑三森有正を引き合わせたように思われる。戦前、森有正も一人の娘を亡くしている。娘の死——この出来事が彼等の転回を促し、悲しみと慰めを教えた。

内村鑑三は「聖書を、信条としてではなく、自己の実験によって承認しうる事実として解する2」と、森有正は指摘する。渡仏など、表面的な生活の変化を超えて、彼の思想を一貫して表現する言葉は他にない。「実験」を「経験」に置き換えれば、後年の『遥かなノートル・ダム』に結実される彼の思想の萌芽が確認できるだろう。因習と教条から自由になることが彼等の生涯の課題だったのかもしれない。


  1. 森有正内村鑑三講談社講談社学術文庫、1976年、3頁。

  2. 同上、64頁。