政治家不在の日本政治

7月4日に東京都都議会選挙が行われるが、いまいち盛り上がりに欠けている。

新聞各紙の出口調査では、自民・公明が過半数を取るかもしれないと報じられているし、一方、議席を減らすことを予想されている都民ファーストも、小池百合子の退院で挽回する兆しである。

コロナ禍における緊急事態宣言の発令、オリンピックの開催で人々は気づいているはずだ。政治が私たちと疎遠になってしまった、と。政治は国民が決めるのではなく、政治屋と役人の間で、談合、調整され、粛々と決められてしまうということを。その結果、すべての政治は補助金の規模と対象を争う、利益誘導型の給付行政に還元される。「食い扶持を与えるのが政治の本質」という菅義偉の理想が実現されたようだ。これが政治と言えるだろうか?

私たちが政治を、世界を変える。そのために、私たちを代表する政治家を選出する。この光景は日本の政治から失われてしまったのだろうか。

葛飾区の立憲民主党の候補者 岩崎孝太郎氏のパンフレットを見ると、「東大卒、弁護士、2児のパパ、東京を変える」と書いてある。私にとって政治家が、東大を出ていようが、弁護士であろうが、2児の父親であろうが、どうでもいいことである。お育ちが良すぎるのではないだろうか。鼻につく、というのが正直な感想である。彼には現場の人々の気持ちを理解できないのではないか、と疑ってしまう。これは私のポピュリズムである。

葛飾区の候補者の中で唯一まともな政治家は、日本共産党の泉尚美氏と思われるが、私は私有財産の保護は個人の自由と成長に不可欠と考えるので、共産主義は私の主義に反する。しかし、投票に値するのは彼女しかいない。自民・公明・都民ファを打倒するためならば、私は敵に塩を贈ることも辞さない。

しかし、政治家のいない、日本政治の風景である。