本妻の周辺

今、私が自宅で使っているコンピューターのOSはWindows 10なのだが、昨夜、思い切って、デスクトップ環境を見直した。すると、こうなった。

f:id:takashi19861223:20211028142326j:plain

タスクバーに置く項目はWindowsのスタートボタンのみに絞った。お気に入りのアプリケーションをごちゃごちゃ置かず、現在、走らせているプロセスだけが表示されることになる。また、今まで放置していたスタートメニューを次のように整理した。

f:id:takashi19861223:20211028142342j:plain

それぞれのタイルに使用頻度の高いアプリケーションを置いた。キーボードのWindowsキーで呼び出すので、タスクバーに置くよりも一手間かかるが、慣れてしまえばどうということはない。

しばらく使っていると、Windows XPを使っていた頃を思い出した。このOSで初めて、Microsoftはタスクバーにアプリケーション・ランチャーを設置したけれども、だいたいの操作はスタートメニューを開いて始めていた。

思い返せば、ランチャーの概念はmac OSが普及させたが、この機能を中途半端に取り入れたWindowsはシンプルであることを放棄して、むしろ、使いにくくなってしまったのではないか(一方、mac OSのデスクトップを徹底的にパクったUbuntuのUnityの方が使いやすかった)。Windowsは「シャットダウンするにもスタートボタンを押さなければならない1」と嘲笑されても、愚直にスタートボタンを押し続けるのが御作法なのだ。それがWindowsのコンピューティングなのだ。

そんなことを書いていたら、Linuxの標準的なデスクトップであるGNOMEKDEXfceも、どれほど進化しても、頑なにスタートボタンが用意されていることに気づいた。私の本妻はWindowsであり、Linuxは一号、二号、三号である2。—— I love Windows and Linux.


  1. しかし、プロセスとして考えると、矛盾していないのではないか。

  2. WSL(Windows Subsystem for Linux)のUbuntuを愛用しているが、やはり、コンソールに閉じ込めておくのは可哀そうだ。デスクトップOSとして堂々と使いたいものである。