昔は何を食べても、何を飲んでも、頑丈な胃袋で、そのおかげでここまで立派な体躯に成長した。「君は食うのも、飲むのも、両方イケる口だからな」と、二十代半ばに勤めた出版社の社長に言われた。「鎌倉文士は手酌主義だ」白樺派の嫡流を自認する、その社長の名言である。
三十代になると、なんとなく心身に不調を感じ始めてきた。「将来の文豪は胃弱で、神経衰弱ですよ」仕事が夜半まで長引いた時の言である。新入社員の女の子と直属の女性の上司はカラカラと笑っていたが、隣の中間管理職の中年男性は引いていた。酒を本当に覚えたのはこの頃である。
その後、仕事は様変わりしたが、魂以外は、健康そのものだった。女性の多い職場では肉体派の一人として重用され、縦横無尽に活躍していた。……はずだった。
35歳を過ぎると、胃弱と不腸、そして、痛風に悩まされるようになった。魂の不健康は肉体の健康を
前座はこのくらいにして、今回は速水健朗『フード左翼とフード右翼:食で分断される日本人』をご紹介しよう。本書のテーマは「食と政治」である。
人が口にするものを運ぶにあたって、それが科学的に危険かどうかよりも、感覚的に気分がいいか悪いかが重要な問題となり得る。食べものの好き嫌いに理由はない。まさに、食の選択が政治意識を生み、イデオロギーを生むというのはそういうことである1。
速水が指摘するのは、献立を選択するのは実は政治的な選択をしているということである。ハンバーガーをどこで食べるか。マクドナルドか、モスバーガーか、それとも、フレッシュネスバーガーか。中華料理をどこで食べるか。日高屋か、銀座アスターか。シイタケは国産と中国産どちらを買うか。牛肉は国産か、それとも米国産か。米は福島県産か、もしくは千葉県産か。……等々、挙げればキリがないが、食材の選択、料理の選択が、政治意識ないしイデオロギー2の反映であり、また、逆に食事がそれらを涵養するということなのである。かつてキリストは、今日なにを食べるか思い煩うな、と言った。しかし現代において、食事は政治的
「フード右翼」とは何か? コンビニ弁当やラーメン〈二郎〉などのボリューム満点、カロリー過多な食事を好む人々のことである。他方の「フード左翼」とは、
一時的なムーブメントでしかなかったヒッピーではあるが、彼らが生み出した文化は、当初の意図とは違ったものとして次第に広まり定着していくことになる。それを受け継いだのは、健康志向の強い都市部、もしくは整備された郊外に家を持つようなアッパーミドル層だ。彼らは、ヨガや菜食主義、瞑想などを自分たちのライフスタイルの中に持ち込んでいった。それは、ヒッピーたちが持っていた反文明、反消費社会的な精神をそのまま受け入れるというよりは、健康的でファッショナブルなものとして消費したのだ。
もちろん、完全に政治的な要素が抜けたわけではない4。
本書の執筆のために取材する課程で、徐々に速水はフード右翼からフード左翼に転向していった。かつて、社会主義者や共産主義者など政治的左翼は、戦争などの事変の勃発、あるいは革命運動が挫折すると、左翼から右翼に転向していった。渡邉恒雄、西部邁などである。しかし、「フード左翼とフード右翼に関しては、逆かもしれない」と速水は指摘する。
「フード左翼」から「フード右翼」への転向はまず考えられないように思う5。
「美味しい」は正義なのだ6。
最後は一個の社会現象の追究にとどまらずに、正義という、政治哲学の問題にまで考察が及んだ。食事は政治に比べると、やはり、地に足が着いた営みなのかもしれない。
さて、本書を閉じるにあたって、私の政治的位相について考えてみた。私は紛れもないフード右翼である。この頃は胃腸の調子が悪いので、ラーメン〈二郎〉には二の足を踏んでいるが、ソバ、ラーメン、牛丼、カレーライスなど概ね庶民的なものを好む。自炊してもだいたい納豆御飯7である。最後は
ハンバーガーショップに並ぶ、ビル・ゲイツがたまらなく愛おしい。私はAppleよりもMicrosoft、MacよりもWindowsの味方なのだ8。