「おおっ」文学者

小谷野敦は私の読書の先生である。もちろん、勝手に私淑しているだけで、直接的な師弟関係はないのだが、彼の著書で紹介されている本をひも解いて、「おおっ」と膝を叩いた経験は何度もある。

だが、実を言えば、学問というのは、高校生や大学生が「おおっ」と思うところから、いったん切れてなされるものである。文学研究や歴史研究もそうで、歴史小説なんか読んで、歴史が好きだー、と思って歴史学科へ行ったりした学生は、ちまちまと古文書を読まされて嫌になったりする。文学研究も、古典だとそうなのだが、近代文学のほうをやると、「おおっ」のまま研究している教員や、学生にあわせて「おおっ」授業をやる人、文学にことよせて政治的主張などをする人(これは文学に限らずいる)が、いて、まあいろいろである。浦西和彦(監修)の『昭和文学年表』(明治書院)のような、昭和期の文学の書誌学などのすごみは、長年やっているとじわじわ分かってくるものである1

音楽的な文体である。実際、私はこの一節にぶつかった時、身体を揺すりながら、そして、ニヤニヤしながら音読した。『声に出して読みたい日本語』とはこのことである。先ほどの著者の齋藤孝は古典的、復古主義的な作品ばかり収録しないで、こういう小谷野敦のような、古典文学を咀嚼しつつ、現代文学の極北を疾駆する人の作品も容れてほしいものである。齋藤孝はニセモノだが、小谷野敦は本物である。

さて、本題に入ろう。私はキリスト教徒なので、どちらかと言えば宗教に関心と理解がある方である。しかし、本書で小谷野が掲げた「宗教に関心がなければいけないのか」という疑問、反発を共有していないのか、と訊かれれば嘘になる。小谷野は唯物論者マテリアリスト近代主義者モダニスト個人主義者インディビジュユアリスト、そして、現実主義者リアリストである。

つまり、私は集団が苦手なのである。ある集団に属して、その集団の意思で行動するというのが嫌なのである。嫌というより、そういう行動をする人間が理解できないのである。個人主義者なのであろう2

私はある時期から作家の伝記を書くようになったが、その場合重要なことは事実の確定ないし推定である。世の中には、事実は一つではない、などと言う人がいるが、それは間違いで、物理的事実は一つである3

私は小谷野よりもう少し理想主義イデアリストだが、それでも実は小谷野の立場に近い。ポストモダンの時代においては、真理(事実)は一つではない。人間の意志によって、言葉(言説)によって、創造(捏造)される。現実は作り替えることができるんだ、と吹聴する輩がいるが、私にして見れば、ブンガクの読みすぎである。「池に水はない」と言えば、溺れる者は救われるのか、とマルクスが『ドイツ・イデオロギー』でヘーゲル左派を嘲笑したのを思い出してほしい。その繰り返しである。付け加えると、私は精神分析、ロゴテラピー、対人関係療法4では、精神疾患は治らないと思う。薬物ないし抗精神病薬がいかにして精神病者の現実を変容させることか。小谷野敦の次の一文に私は救われる思いがした。

それでも苦しい時は、精神安定剤(デパス、パキシル、セパゾンなど)や抗鬱剤(ドグマチールなど)、睡眠導入剤(ハルシオン)などを用いるといい。日本ではつい最近まで、こういう薬を使うのは危険だとか邪道だとかいう風潮があったが、米国などでは、精神的ストレスの大きい仕事をする人はたいてい常用している5

昔、私は旧友に連れられて、某日蓮宗系の集会に参加したことがあった。当時の私は躁鬱病の前駆症状に苦しめられていた。「兼子くんも、**くんと一緒に題目を唱えてみないか?」と勧められたが、「私には文学がありますから」と言って断った。小谷野の矜持もここにあると思う。その後、私はキリスト者になった。今では文学と宗教は関係しているが、それぞれ独立の領分を持つことを弁えている。実際、私の信仰は功利主義である。キリスト教に入信した時期とフリーランスとして独立した時期が重なるのは偶然ではない。私は人間関係が真空状態になることを怖れた。孤独と狂気は紙一重である。宗教には効能があるし、それは社会的に承認されるべきである。しかし、私は小谷野敦のような文学者になれなかった。


  1. 小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』(筑摩書房、ちくま新書、2016年)65頁。

  2. 同書、190頁。

  3. 同書、196頁。

  4. 精神分析は神経症の治療のために父子・母子のトラウマを解消しようとした。その点、対人関係療法は精神分析の嫡流にあたると言える。

  5. 小谷野敦『評論家入門』(平凡社、平凡社新書、2004年)209頁。