外回りから戻った私は自分の席に着いて、床に荷物を降ろした。
「どう? 成果はあった?」古希に差しかかった老媼の編集長が訊いた。
「いえ、一件も取れませんでした」私が苦しげに答える。自転車で営業してきたからだ。
「そんなんじゃ、新聞でなくなっちゃうよ。私は会議があるから、本館に戻りますからね」湯場編集長はサンダルに足を突っかけると、ドアを開けて出ていった。
「成果なし、ですか」還暦を過ぎた、正木さんが換気扇の下から出てきた。「この程度の広告の枠を出し渋るとはねえ。うちってそんなに信用ないのかな」
「広告の営業がこんなに大変だとは思いませんでした」
「まだ社会人一年目でしょう。広告業は過酷ですよ。牛丼やラーメンを売るのとは訳が違うんですから。形のないものを売る。そのためには広告主をだまくらかす。詐欺の才能がないと駄目ですよ」そのあと、正木さんは少し気づまりに、頭を掻きながら言った。「本当に詐欺を働いたら、捕まっちゃいますけどね」
大学の嘱託職員の任期を終えると、私は故郷を出て、埼玉県の所沢市に引っ越した。ハローワークで見つけた新しい職場は新聞販売店。と言っても、新聞配達をするのではなく、その店が独自に企画、配布している、タブロイド判のミニコミ紙を編集する営業記者という職種である。記事の執筆、編集だけでなく、広告の営業も業務として課せられている。編集者は主筆(このポストは社長が務めている)を除く四人、うち編集長は新聞販売店の叩き上げの
「お得意さんにお願いして回るのはビジネスとは言えませんからね。新規のお客さんを獲得しないと」正木さんは指を舐めて、今朝の新聞広告を捲った。「Kさん、何か耳よりな情報はありませんでしたか?」
「本町に先月オープンした保育所ありましたので、そこに営業をかけてきました。だけど、広告はすでに出し尽くしている感があります」
「脈なしか」正木さんは胸ポケットからタバコを取り出して火を着けた。「そろそろ忘年会シーズンだから、飲食店を狙うというのも手ですけどね」一服——。「ただし、飲食店は広告の規模が小さいですからね。枠が小さいんです。その分、数を集めてこないと」
「私、今週号は飲食店担当でもいいですか?」
「Kさん、やりますか」正木さんはしばし黙考した。「私が上場企業などの大型案件を取る。Kさんが街場の飲食店の新規案件を取る。これでどうです?」
「この線でお願いします。足で稼いできますから」
「広告営業の初心者に、飲食店はお勧めかもしれませんね」
正木さんは立ち上がると、ちびたタバコを台所に揉み消しに行った。編集室には灰皿は置いていない。ここは一応、禁煙になっているのだ。