巴里の憂鬱

人はなぜ街に来るのか。また、人はなぜ街を去るのか。街は古今東西、人々が往来し、際会する場所であり続けた。数多あまたの世界都市の中でも、パリはひと際、その役割が顕著だった。この共和国の都は、世界の中心であると同時に、世界そのものであった。田舎からパリに出ることは、世界に出ることを意味した。 エンリーケ・ビラ・マタスも、その一人である。彼は1974年、文学修業のために、故郷のスペイン・バルセロナを出て、この世界の首都にやってきた。彼はそこでマルグリッド・デュラスのアパートに起居しながら、人々(特に文学、芸術を生業にする人々)の絶望と希望を目の当たりにすることになる。『パリに終わりはこない』は作家/芸術家の彼/彼女たちのドキュメントである。

その一方で、絶望感にひたっている振りをしているうちに、本当に絶望するようになり、あらゆることに希望が持てず、未来が闇に包まれているように思えはじめた。以前、自分の青春を暗黒の絶望と呼んだことがあったが、それによく似たものになってきた。そうした絶望感——見せかけだけの時もあれば、時にはまぎれもない絶望感に襲われることもあった——はパリで暮らした2年間私のそばからつねに離れることのない、誰よりも忠実な同伴者になった1

絶望は若き芸術家、駆け出しの作家のみを捕えていたのではなかった。絶望は誰にも等しく、創作の円熟期に入ったノーベル賞作家をも捕えていた。アイルランド・ダブリン出身のサミュエル・ベケットである。

冬のある朝、アリエータとリュクサンブール公園を散歩している時に、側道の並木道に黒い鳥のような人物が身じろぎもせずひとりぽつねんと新聞を読んでいるのを見かけた。サミュエル・ベケットだった。全身黒ずくめの服で身を固めた彼は、椅子に腰を掛けてじっとしていたが、絶望感に打ちのめされているようで、見ているこちらの胸が苦しくなった。それが彼、つまりベケットだとは容易に信じられなかった。[…]人気がなく、古びて寒々とした公園で絶望感にひたって新聞に目を通しているところに出くわすとは夢にも思わなかった。時どきページを繰っていたが、リュクサンブール公園が揺れ動いてもおかしくないほどの怒りを込めて力一杯繰っていた2

マタスのパトロンであり、彼に無償で屋根裏部屋を提供した小説家 マルグリッド・デュラスも絶望と対峙していた。彼女は出版社のインタビューで、創作の動機を次のように話している。「することがなくても平気なら、何もしたりしないわ。何もしないでいることができないから書いているのよ3」しかし、彼女は弟子 マテスの前では憎しみを込めて次のように話した。「自殺しないために書いているのよ4」弟子は師の公案のごとき問題に自問自答する。「彼女がものを書くのは、何もしないでいることに我慢できないからか、それとも自殺しないためだろうか、いったいどちらだろう?5

先のベケットはパリを終の棲家にしたが(ダブリンに退却する選択肢は彼にはなかった。彼は最期まで前衛を貫いたのである)、アーネスト・ヘミングウェイは1923年にこの街に訪れて、小説修業に励み、『日はまた昇る』を出版したが、結局、この街を離れていった。彼には「パリの冬は寒かった」のである。マテスは家主 デュラスに約30年分の光熱費を請求されたのを機にパリを離れたが、心はすでにこの街になかった。タイプライターの打ち方を身に着けたし、長篇『教養ある女殺人者』も脱稿した。彼はバルセロナでも書けると確信したのだ。 彼を絶望から救ったのは文学のアイロニーだった。デュラスの教育は奏功した。マテスのパリの文学修業はここに完成を見たのだった。

なお、哲学者 森有正は1950年にパリに留学したのを機に、大学の教職を投げうって、この街に住みついた。パリを去る人もいれば、パリに一生とどまる人もいる。彼もまた、パリの絶望にぶつかった人だった。

美しい秋晴れ。絶望に就いて考えている。これが亦一つの領域であることが判ってきた。領域であるならば、これを避けて通るか、あるいはその中を通過してしまわなければならない6


  1. エンリーケ・ビラ・マタス『パリに終わりはこない』(河出書房新社、2017年)177頁。

  2. 前掲書、258頁。

  3. 前掲書、262頁。

  4. 前掲書、同上。

  5. 前掲書、262-263頁。

  6. 森有正「城門のかたわらにて」『バビロンの流れのほとりにて』(筑摩書房、1968年)395頁。