花の小説家
吉行淳之介について、このブログでも何度か書いているが、彼の作品について書くのは、今回が初めてである。彼について言えば、私の中で或るイメージが先行している。NHKの連続テレビ小説『あぐり』(1997年)である。
左記のドラマは、美容師の「あぐり」を主人公にして、「望月」一家の影像を映しているが、モデルはまぎれもなく「吉行」一家である。小説家/ダダイストのエイスケと美容師のあぐりの夫婦は、大正、昭和の時代において、最先端の夫婦だった。彼らの子、淳之介(小説家)、和子(女優、随筆家)、理恵(詩人、小説家)がそれぞれ芸術の道を歩んだのは当然のことだと思う。吉行の家には花がある。終戦直後、淳之介は田舎の女学校の講師を勤めていたが、数ヶ月で辞めてしまった。間延びした青臭い女学生の顔を、毎日教壇から眺めるのに耐えられなかったらしい。退職に際して、数人の教え子が彼に花束を贈呈したが、彼はそれをわざと学舎に置き忘れた。その後、彼は大学を辞めて、雑誌記者に転じた。処女作『薔薇販売人』を書いたのはその頃のことである1。
肺病と作家
1954年に芥川賞を受賞した当時、淳之介は千葉県佐原市の結核療養所 清瀬病院に入院していた。結核菌に侵食された肺の成形手術を受けるためである。吉行淳之介にとって、作家としての出立は、肺病の罹患と無縁ではなかった。彼はそれまで、同人雑誌で小説を書いている頃から、自分の作風、作品を書くペースは、職業作家に向いていないと自覚していたが、状況が彼を雑誌記者から小説家に変貌させた。結核で肺を病んだことにより、普通の勤め人の生活、サラリーマンの生活を継続することが難しくなったのである。死病としての結核に罹患することは、サラリーマンの死を意味した。それは同時に市民生活の終焉も意味したのである。短篇『漂う部屋』には次の挿話が記されている。
投書の主は成形手術を受けた女性である。女性は郷里の町に帰って療養生活を続けることになったので、ある日銭湯に行った。蛇口の前に坐って躰を洗っていると、隣に坐っている中年の夫人がじろじろ彼女の傷痕を眺めていたが、急に身をしりぞけて、
「こんな日に、お風呂へ来るのじゃなかった」
と、大きな声で言った。すると、その声が合図ででもあったかのように、浴場中の人々が一斉に立上って、彼女のまわりにはにわかにガランとした空間ができてしまったそうだ。
湯槽に浸っていた人々までが総立ちになり、どんどん浴場から出て行ってしまい、ついに彼女は一人だけ広い流し場に取り残された、というのである2。
たとえ、肚の中では激しい怒りを感じていたとしても、軽妙な文体によって、ごく自然体に書けるところが、彼の文学の真骨頂、その魅力なのであるが(彼が都市生活者であることと無縁ではない)、それ以前も勘付いていたことであるが、死病に罹ることは、私と彼等の生理的相違を際立たせた。この絶望的認識が彼をして娼婦の探求に誘ったのではないか。そして、彼女達の小説を書かせたのではないだろうか。