荒野へ

なんぢら人を避け、寂しき處に、いざ来りて暫しいこへ。
——『マルコ傳福音書』第6章31節

短歌は上達している。言い換えれば、短歌しか書いていない。

『作歌のヒント』で永田和宏が言うように、短歌の上達のヒントは、一般的に短歌の結社に入ることだと言われている。結社に入れば、定期的に歌会に参加し、批評し合い表現を磨き、作品発表の場として結社誌(同人誌)を発行し、自分以外の同時代の他人の作品を知ることができる。なによりも有難いのは、適宜、飲み会を開催することで、アルコールと社交ソサイエティの相互作用で、適度に孤独を癒してくれることだ。しかし、作品を書いている時は誰でも一人だ。孤独は——人間は皆、原罪と神聖を宿しているように——作家に平等に課せられた重荷である。作家の成長の要諦は、孤独の重みに耐える体力を養うことにある。

以前の私は社交が文学を加速させると考えていた。短歌の結社に入ったのもそのためだし、懇意にしている喫茶店の文学カフェにも顔を出していた。しかし、社交は文学のポジにすぎない。本当に大切なのは孤独と言うネガである。世界はポジとネガが交錯してできている。両者は車の両輪のごとく、相互に成長することによって、作品と世界は豊かになる。しかし、作家の個性を養うのは圧倒的にネガの方である。ポジに振れると、人は無個性になる。のっぺらぼうになる。ハイデガーが『存在と時間』の中で、公共性エッフェントリヒケイトの病理を指摘したように。

今後は結社誌に掲載された作品をお義理に読むことも少なくなるだろう。かつての私はそうして勉強することによって、一言二言、お世辞を、気の利いたことを言うことが、文学共和国を建設すると考えていた。確かにそれは正しい。しかし、今の私は共和主義者ではない。民主主義者には違いないけど、暫定的に浪漫主義者としておく。以後の私は古典を中心に選りすぐりの作品を読んでいく。安易に現代の口語短歌にはなびかない。格調高い文語の形式を遵守していく。私は形式主義者フォルマリストだ。傲慢な考えかもしれないが、結局、これ以外に作品を良くする方法はないのだ。いいものを書きたい。今はそのために努力を傾けるべき時である。

政治学者/歌人 南原繁が処女作『国家と宗教』を上梓した時の一首。

かそかなるふみにしあれどわが心うちに嘆きて書きにけるもの1


  1. 南原繁『形相』(岩波書店、岩波文庫、1984年)156頁。