ドヤ街に歌えば 3

バー 玉ちゃん

街場と酒場

山谷には飲食処のみくいどころが少ない……。この街を訪れた人の初めの印象は左記のようなものではないか。たとえ、それが統計的に事実だとしても、お店の雰囲気、料理の滋味、店主の人柄を知らなければ、片手落ちになるだろう。「戦いは数だよ兄貴!」と、ドズル中将は言った。それは本当だろう。人口の多い所に資本は集まる。逆もしかり。この現象は都市経済学において集積効果と呼ばれている。一見、もっともらしく見えるが、私はこの「長いものに巻かれろ」理論に不満である。世界には、輝いている所、栄えている所、豊かな所だけを見ても分からないことがある。大谷崎(谷崎潤一郎)は『陰翳礼讃』で、それを堂々と主張したし、私のような信条の持主もすでにそのような思考様式を備えている。明暗を見よ。——それが文学者としての立場である。

山谷清川に一軒の酒場がある。バー 玉ちゃんである。私が当地に宿泊して以来、ひいきにしているお店である。入口の引き戸を開けると、きまって中年の一組のカップルが居る。一人でも居やすい。あるいは大切な人と二人で来てもなお居やすい。そういうお店なのである。店内はカウンター席の他にテーブル席も用意してある。

私は来るときまって、ビールと焼鳥を注文する。焼鳥はモモ、ハツ、スナギモである。炭火焼鳥である。焼鳥の他にアスパラ巻きも美味しい。苦みと歯ごたえが絶妙なバランスなのである。

店主の玉ちゃんこと、玉田淳さんは72歳。好奇心の塊のようなつぶらな瞳が特徴である。髪も丁寧に分けている。上品な方である。長年、飲食業界、お酒を扱うお店で働いていたが、珈琲の心得もあるらしい。そのためだろうか。彼の作る料理はお点前を彷彿させる。店内のバックミュージックには、クリストファー・クロスの「アーサーズ・テーマ」のカヴァーが流れていた。ハイカラなのである。

ビールのあとに、冷酒を傾けていると、玉田さんは酒棚バック・バーからやおら、ジョニーウォーカーの瓶を取り出してきた。

「これは12年のアイラオリジンと言うんですよ。ウィスキーは最後はスコッチに、アイラに至るものです。飲んでみてください」

ショットグラスに、味見をするよりもチョット多めに注いでくれた。一滴、二滴、舌に滴下すると、口の中にスコッチ特有のピート臭だけではない、それ以上の味わいが拡がった。この豊かなふくらみこそが美酒の美酒たるゆえんである。普段、安酒を飲んでいるから分かるのだ。

私がライターとして山谷の地域を調査していることを告げると、玉田さんは私に示唆に富むことを教えてくれた。

「それなら銭湯に入ることです。近頃はどこでも銭湯が少なくなっているでしょう? でも、山谷は今でも銭湯が盛んなんです。この辺だと栄湯がおすすめですね」

街場が銭湯を作り、銭湯が街場を作る。そして、街場が酒場を作り、酒場が街場を作るのではないか。私はウイスキーを飲みながら、一人そんなことを考えていた。

銀座か 山谷か

玉ちゃんの料理は美味しい。焼鳥はもちろん、親子丼、蕎麦など、腰を据えて食事をすることもできるから嬉しい。それに合う日本酒もたくさん品揃えしている。お酒と料理の店なので、普通の感覚で言えば居酒屋だが、私はバー 玉ちゃんと言う方が好きである。それは看板にそう書いてある以上に、洋酒の種類が格段に多いことだ。それもウイスキー、ジンなどのスピリッツだけでなく、リカール、イエーガーマイスターなどのリキュールも揃えている。本格的なカクテルが楽しめる、山谷の唯一の店ではないだろうか。

「ティオペペが置いてありますね」私は酒棚の一角を差して言った。「昨日、小岩の酒場でシェリーを飲んできたんですよ。まさか、山谷でも会えるなんて」

「シェリー、美味しいですよね。食前、食中、食後、いずれにしても最適です。昨日、そのままで飲んだのでしたらどうです? トニックで割ってみては。ソーダで割っても美味しいですよ」

私はトニック割を注文した。

「レモンとライム、どちらを入れますか?」

「ライムでお願いします」

玉田さんはタンプラーに氷を入れ、丁寧にビルドした。「どうぞ」

「爽やかな苦みを感じますね」

「シェリーとトニックの苦みが良いアクセントになるんですよ。ソーダを少し入れて、苦みを抑えています」

山谷のドヤの門限は午後11時。私は時間ぎりぎりまで玉ちゃんのカウンターの席に坐っていた(酒場に長居してしまうのは私の悪い癖だ)。百聞は一見にしかず、山谷で本格的なカクテルが飲めるのだ。銀座で飲むのとは一味違う。この世には輝いている所、栄えている所、富んでいる所で飲むだけでは分からない味がある。山谷の玉ちゃんは私にそのことを教えてくれた。

シェリー・トニック