『山谷の
ルポに理論なんか要らないじゃないか、と思われるかもしれないが、それには相当の理由がある。
理性と感性
まず、私は本質的に思想好き、理論好きである。感じたこと、考えたことを思想ないし理論まで昇華させないと気が済まないのである。昨日、この点について、ヴァイオリニストと議論したのだが、私の理論偏重は、他人を知識で圧倒したい、権力欲の一種である、それはすなわち、己の自信のなさの裏返しである、と指摘を受けた1。それは正しい。しかも、なお悪いことに、私の理性偏重の傾向は私の感性を犠牲にしているかもしれないのだ。
意外に思われるかもしれないが、私は学生の頃から感性の人と見られていた。「君は感覚は鋭い。しかし、努力が足りない」と先生に言われた。私にも創作の経験があるから分かるが、感性(感覚)だけでは作品を完成させることはできないのである。なんとなく理解している状態から、確固たる確信に変わらなければ、創作活動全体を支えきることはできないのである。感性の人は幼児に似ている。それは幾多の経験を経て、理性の人すなわち大人に成長しなければならないのだ。……と、大上段に構えて言ったが、結局、学者と芸術家は理性と感性を絶えず往還することを宿命づけられているのだろう。思えば、私は酒を飲むことで、理性を鈍麻させる替わりに感性を鋭敏にしてきたような気がする。酒飲みの自己弁護。
汝の敵を知れ
「汝自身を知れ」哲学者 ソクラテスの格言だが、経験を思想にまで錬磨していくと分かるもう一つのことがある。それは「汝の敵を知れ」である。プラトンからニーチェ、マルクス、アレントに至るまで、哲学と哲学者の歴史はその敵を見出し、打倒することであった。勝敗はいつも決まっていた。俗人は勝利し、哲学者は発狂ないし憤死した。しかし、それでも哲学者は考えることを止めなかった。その点、哲学は権力の意志そのものであることは正しい。
私の敵——それは市民社会とそこに住む市民である。彼等は私を苦しめ私を助けた。ゆえに私は彼等に対し愛憎という二律背反の感情を抱いてきた。私が『山谷の基督社会』を書く理由は、そこにローマの市民権を剥奪され、迫害されてきた原始キリスト教徒の姿を見るからである。本来、キリスト教徒は市民ではない。
ちょっと過激なことを書いてしまった気がするが、これぐらい意識を先鋭化させなければ物書きとして大成できないと思う。ボンヤリ生きていたら、時代と世間に流されてしまう。書くことは戦うことだ。書いていると元気になるのはこのためである。
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指摘、という鋭いものではなく、もともと自覚していたことを言語化した感じである。有意義な反省の過程であった。↩