Characters

我体調悪し。多分、酒の飲みすぎと睡眠不足のせいなり。明朝、山谷の炊き出しを取材するゆえに、今夜はすべからく酒を控えてすぐ寝るべし。

今日は訪問介護2件と精神科の受診があった。あとはだいたい布団に仰臥していた。机の前に坐った時は、Emacsの設定を少々、短歌の修辞を少々弄っていた。読書はLaTeXのコマンドの確認のために『美文書作成入門』の該当頁を拾い読みしていた。恐ろしく不生産な日だ。

小説の登場人物の名前について考える。とうの昔に気づいていたが、私の苗字のイニシャルはフランツ・カフカと同じ「K」である。小説の登場人物をことごとくイニシャルにしてしまおうかと考えたけれども、そんなことをすれば読みにくいし、登場人物が増えるにつれて、イニシャルが重複する可能性が増えることに気づく。それならばX1、X2、X3のように下付文字で表現すればいいと閃いた。代数学の成果を応用して、文学にも盛んに記号を導入するのだ。物語の抽象度が一気に上昇するかもしれない。登場人物にψが出てきたら、ラスボス感半端ない。「くらえ、波動関数!」……なんちゃって。

それはさておき、小説の登場人物の造形の仕方は相当な難問である。名前の発案はその最たるものである。人は名前が9割、という訳ではないが、小説などのフィクションの世界は、登場人物一人々々の名前によって緊密に構成されていると言っても過言ではない。実際、19世紀のリアリズムの流れを汲む小説家 トーマス・マンは、登場人物の性格を名前に正確に反映させていた。不遜な人物には不遜な名前を、下卑た人物には下卑た名前を与えた。評論家のクラウス・ハープレヒトはマンのそのような創作の仕方を「あまり上品とは言えない楽しみ」と評していたが、実は小説の本質に関わるけっこう根深い問題ではないだろうか。ちなみにマンの忠実なる弟子を称していた辻邦夫は、『夏の砦』の織物作家に支倉冬子という名前を、『雲の宴』の辣腕編集者に白木冴子という名前を与えた。ちょっと、やりすぎではないか。

実際の小説の登場人物は具象性を保ちつつも、読者に想像の余地を残すために一抹の抽象性を残す方がいいのではないか。文学は数学ほど純粋にはなり切れないからだ。