BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

下町の分断

約1ヶ月ぶりに山谷の炊き出しに行く。9時に現地に着くと、野菜の皮むきと切り込みはすでに終わっていた。今日は浅草聖ヨハネ教会の聖公会の信徒と、聖心女学院のOG、聖路加国際大学の看護学生がボランティアに来ていた。炊き出しの面白い所は、その活動の母体はカトリックの修道院であるにも関わらず、アングリカンなど他の宗派の信徒や、ノンクリスチャンの学生などを巻き込んでいるなど、参加の間口が非常に広いということだ。世間一般の理解では宗教とその信徒からなる教会は閉鎖的なイメージがあるが、けっしてそうではなく、市民に活動の正当性が認められれば、その社会に広く開かれているのだ。この点も、ロバート・パットナムとデヴィッド・キャンベルの『アメリカの恩寵』が描いている。言い換えれば、私は彼らの認識の範疇から逃れられないのである。

11時からはカレーライスを満載にした自転車に乗って、東浅草と浅草に住む路上生活者(ホームレス)に配達に出かけた。炊き出しの会場に来れない人々にも対応するためだ。私達は隅田公園を中心に個別に訪問して、体調の聞き取りなどをおこないながら、弁当と麦茶、菓子とマスクを配っていった。このような活動を一般的な福祉の用語ではアウトリーチと言うが、路上生活者の生活に直接触れることがあり、私のようなライターを業としている者からすると、フィールドワークの趣きがある。隅田公園には空缶など資源ごみの回収で生計を立てながらテントで寝泊りをする人もいれば、まったく生計の手段がなく、ベンチまたは地面に坐りこんで、呆然として一日を過ごす人もいる。その横をおしゃれなスポーツウェアを身にまとったファンランナーが通り過ぎていく。これが今の下町 浅草の現実である。

『山谷の基督』をどのような文体で書こうか考えている。論文のような生硬な文体にしようか、それともルポルタージュのような、人々の声が聞こえてくる、柔和な文体にしようか。後者の方が私の資質に適っていると思うが、どうだろうか? とまれ、手を動かして、何度も書き直して考えるしかないのだ。