狭き門

湿度は高いが気持のいい朝。けれども、少々気の滅入る出来事があったので、呆然自失してコーヒーを飲んでいる。

訪問介護からは遅くとも年内に手を引こうと思う。10月からは施設の仕事も週5日に増やすし、忙しい合間を縫って、買物代行で小銭を稼ぐ必要はないのだ。休日は転職活動ないし創作活動に打ち込んだ方が経済的な効率もいい。

もう、やりがいのない仕事を続ける必要はない。そういうことを二つ返事で引き受けて、歯を食いしばって働くのが大人だ、という見方があるが、私はそれは正しくないと思う。人は成熟するにつれて、自分にふさわしくない、無意味な仕事を手放していく。厭わしく、汚らしく、退屈な労働でも、それを忍耐して続けていれば見えるものがある、と大人は言うが(むしろ経営者と言うべきか)、人は労働の無意味を自覚すればそれで十分である。あとは進んでやる必要はないのだ。私には無意味なこと、無価値なことを敢えて行うのは罪深いことだと思われる。それは神の御心に適っていない。少なくとも自分を大切にしていない。ペテロは漁網すなどりあみを棄てて、イエスに付き従ったではないか。

"Eigentlichkeit"というドイツ語の言葉がある。「固有性」「本来性」というふうに訳す。ハイデガーの実存哲学の中心的な概念だ。人は世間と世事の無価値を自覚した時、本来の自分に還っていく。結局、彼は世界の虚無、人間事象の虚無をことごとく見抜いていたんだと思う。そういう人はこの世に生きるのが難しくなるが、彼にはまだ狭き門が残されているのだ。