わたしとぼくのゲーム理論

「少し、席を外そうか」

別室に移動すると、私はポケットから退職届を取り出し、テーブルの上に置いた。一瞬、上司は嫌な顔をした。

「行動があまりに衝動的すぎますよね」そして、続けた。「先日、話し合いをしたばかりなのに」

「**さんには不義理を働いてしまいますが、私の意志は変わりません。年末で辞めさせていただきたいと思います」

「まずはそう思うようになった原因を考えてみようか」

私は出版に戻りたいこと、介護から心離れていること、そのために同僚と同じ方向を向けないために、孤立感を抱いていること、さらに言えば、ある同僚が私を虐げていることについて話した。

「Fについては、ほかの人からも苦情が来ているんだ。近々面談して手を打ちたいと思う」上司は続けた。「兼子さんが気持よく働けるように、会社は努力する。できれば末永く働いてほしいが、少なくとも年度末までは居てほしい」

退職届は私と上司の中間に置かれている。上司が話しているあいだ、私はたびたび、それに目を落としていた。——これをどう扱ったらいいか、決めかねていたからだ。

「話の本筋は逸れますが、私は介護福祉士の資格を取ったことを後悔していません。たとえ、本来の志望は出版にあっても、介護を含めた福祉を否定はしません。今後の人生で、私が現場で介護をするかは分かりませんが、細く、長く、福祉に携わる予感はあります。炊き出しをするくらいですから——。私は人のお世話をすることは必ずしも嫌ではないのです。むしろ、私の仕事ぶりは課長の目にどう映っているのですか?」

「真面目に働いているよ。松戸から異動したばかりなのに、本当によく動いている。私は君に居てほしい。君が安心して働けるように最善を尽くす」

私は退職届を手元に引き寄せた。

「分かりました。年度末まで働きましょう。お忙しい中、お時間を頂き有難うございました」

これはゲーム理論だ。と、私はそのとき悟った。私達はひとえにナッシュ均衡を探し求めていたのだ。退職の時期を遅らせたことによって、私は年内に山谷のルポを擱筆し、年明けに正社員を目指して就職活動をすればいい、と思った。それまで自力で、ライター、エディターとしての勘を取り戻すのだ。