芸術と涜神

小説を書いている。今は大量に書いて、このブログにも習作をばんばんアップしなければならないが、やはり、虚構フィクションを捏造するというのは、精神に独特の負荷がかかるらしく、小説だけでは毎日更新ができないのが現状である。

作家クリエーターとその創造クリエーションについて考える。最近、noteなどでは「クリエーター」と言われているが、いったい誰のことだろう。その人の業はどのようなものなのだろうか。

作家は研究者と違い、みずから作品を作り出す人のことである。こんなことを言うと研究者に怒られてしまいそうだし、研究者にしても、数学者など、独自にして普遍的な理論を大胆に創造している人がいるのも知っているが、それでも作家と研究者は違うのである。作家とその作品には個性が求められる。この世界に新しい人がやってきた、と人々に思わしめなければならない。作家とは個性的な作品を創造する人なのである。

しかし、その創造とはいったいどういう類の行為なのだろうか。創造とは神学的にみれば、無から有を作り出す、神のみに許された行為である。神の被造物たる人は有から有を作り出しているに過ぎない。しかし、作家は創造するのである。彼/彼女は無から有を作り出す。神の業を人が行うのである。それは涜神的な行為である。芸術家は人の限界を踏み越えて、神に近づこうとする人のことである。

しかし、私たち芸術家は本当に無から有を作り出すことができるのだろうか。小説を書いてみると分かることだが、非常に経験に負っているのである。私の小説があまりに私的だから、そう思えるのかもしれない。しかし、どんなに緻密に構築された虚構でも、世界にすでに存在する想像イメージを借用しているのである。もう一度問う。人は本当に創造することができるのだろうか。もしかすると、芸術家はもはや人ではないのかもしれない。良くも悪くも人の道を踏み外した存在ではないだろうか。

創造することの恐れと望みを、私は小説を書きながら確認したい。