包丁を握る

普段、私はほとんど料理をしない。御飯を炊いて、納豆と卵をかけるだけである。

しかし、人と付き合って、その人が家に遊びに来るようになると、意外に料理をするのである。安上がりなのにたくさん食べられるのが動機としてあるが、その他に他人ひとの目を気にしないで済むというのが挙げられるだろう。わが家の酒棚バックバーには洋酒がふんだんにあるので、食前、食中、食後酒には事欠かない。昨晩は鳥鍋と鯨の刺身にドライ・ジンの取り合わせが非常に美味であった。ジンはボンベイである。ロンドンの下町の安酒に違いないが、水あるいは湯で割ると、日本酒の冷酒あるいは熱燗に負けないくらい和食に合うのである。もともと私は食は和食、酒は洋酒が好きなので、料理に合う酒を探求するのも乙であろう。私は無趣味な人間であるが、今後は料理を趣味にすれば、人生の後半を楽しく送れるかもしれない。

作家の嵐山光三郎は出版社を辞めて独立したが、その後、貧苦に攻め悩まされた。その怒り、憤り、悲しみを慰めてくれたのは料理だという。私は中年を過ぎて初めて包丁を握った。料理を食べる方にも事情があるが、作る方にも事情があるのだ。