平行線

芸術上の傑作は、そこに盛られた内容よりも、とにもかくにも生活に打ち克って作品の体をなしたという事実によってわたしたちに慰めをもたらす。だから何より希望の糧になるのは絶望的な内容の作品である。

テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』

私にはアドルノやベンヤミンの言うことが分からない。彼等を称賛する藤田省三の言うことは理解できるのだが(畢竟、彼の思想は経験哲学である。その点、彼の師である丸山眞男、さらにその師である南原繁とも立場が異なっていた)、どうしても先のフランクフルト学派の二人の仕事は理解することができない。トーマス・マンもヘルマン・ヘッセも彼等の言わんとすることは分かる。もしかすると、私は学問よりも芸術の方が向いているのではないか。前者はどこまでも知識人の営みであるのに対し、後者は最終的に大衆に受け入れられることを望んでいるのである。

しかし、冒頭に引いた、アドルノの文章はよく理解することができる。私は彼の書いた物すべては理解することができないが、その断片は分かるのである。もどかしいが、こういう読書も時には楽しいものである。

山谷のルポルタージュは毎日書いている。しかし、あらゆる所に躓きの石がある。それでも、その度に立ち止まって、くよくよ思い悩むよりも、書ける所から書いてしまった方がいいのである。この点がテキストエディタでの執筆の長所である。恩師の先生には送るが、今となっては売り物になるような作品ではない。ポートフォーリオとして納めて、転職の材料にしよう。

生活即芸術という言葉が浮かぶ。しかし、これでは全然弱くて、芸術が生活を圧倒しなければならない。それならば、芸術即生活と言えば正しいのだろうか。一見、芸術至上主義に見えるがそうではないだろう。芸術は芸術。生活は生活。ただそれだけである。両者は並行して進行していく。そのどちらにも、悦楽と苦労があるのだ。