SocialWriter

今年のゴールデン・ウィークはとにかく多くの若者に会った。私が彼等に会うために足を運んだこともあれば、彼等が私に会うために自動車を転がしたり、電車を乗り継ぐことがあった。わが家はさながらオフィスのようであった(もう少し片づけて置けばよかった)。あまりここでは詳しく書けないが、実際に会って話す内容は、とりとめないゴシップであったり、人生相談であったりする。後輩が私を慕ってくれるのは有難いが、こうして普段のサイクルに組み込まれると、私には何か若者を惹きつける要素があるのではないか、と自惚うぬぼれたくなる。

私の職業は記者ライターだが、教会に通い始めてまもなく、聖職の道を勧められたことがある。つまり、牧師になるということである。キリスト教徒の間では、聖職の道に進むことは「召命感しょうめいかんがある」と言われる。独特の言い回しだが、要するに神様の思し召しがあるということである。しかし、私はこの言葉がなんとなく嫌である。そこに一抹の特権意識を感じる。人は聖職に就かなければ、神の思し召しに与かることはできないのだろうか? そんなことはないだろう。大統領にだって、自転車屋にだって、看護師にだって、神の思し召しは働くのである。人々は己の職業に自足し、生き生きと働くことができるのだ。

私は言葉に仕えるライターという職業を天職だと思っている。この仕事でなければ私は心と業を一致させることができないのだ。私は一介のキリスト者であれば十分で、己が分を超えて、牧師になる必要はない。それに教会で働いていれば、理想と現実に引き裂かれることもあるだろう。

次に私が職業として考えたのが、ソーシャルワーカーである。これは何となく、私の性格に向いているような気がする。実際、精神保健福祉士(MHSW)の資格を取ろうかなと思っている。他人ひとの話を聴くのは独特の訓練を必要とする。たぶん、私はライターの仕事を通じて、自分の話をする以上に、他人の話を聴くことを学んだのだ。しかし、ライターとソーシャルワーカーは本当に兼業しても善いのだろうか、その前提も疑う必要があるだろう。理由は簡単である。ライターの当為とソーシャルワーカーの当為は矛盾する恐れがあるからだ。ライターの仕事は世間の規範と禁忌に触れる恐れがある。書いてはいけないものを書いてしまう可能性を常に秘めている。実にライターは業の深い職業である。しかし、これが私の天職なのである。