Defeat of CivilSociety

会社の仕事と教会の活動が忙しくなってきた。首はかろうじて回るし、見晴らしも良いが、綱渡りをしている感じ。生活に緊張感が出てきた。言い換えると、今までどれほど弛緩した生活を送っていたのかが分かる。ライター/ジャーナリストの生活は私の性に合っているらしい。取材の予定を入れるのが好きだ。昔はこんな感覚になることはなかった。

経済学にトレードオフの原則というものがある。何かを得るためには何かを諦めなければならない。カメラを買うためには、その代金として、16,000円の銀行券を手放さなければならない。至極単純な事実である。けれども却って、人生そのものを貫く法則のように思える。人々は交換によって互いの価値を増す。しかし、そのためには何かを諦めているのだ。両方手に入れる訳にはいかない。それでは問屋が卸さない。人生はそんなに都合よくできていない。強欲な者、貪る者は戒められる。

今、私の中で何かが価値を失いつつある。短歌が危ない。いや、精確に言えば、短歌自体は危なくない。短歌を書くことは楽しい作業だし、佳い趣味だと思う。将来、歌集を1、2冊上梓することになるだろう。しかし、短歌結社が私の生活の中で、意義を、価値を失いつつある。今や、結社は会社と教会の蔭に隠れた。なかでも私の中で存在感が強いのが教会だ。会社は転職して乗り換えることができるが、教会はそうはいかない1。それは思想/良心を軸にして、私の私生活と公的生活を結合、媒介しているのである。

市民社会はキリスト社会の権威ちからの前に敗れた。


  1. その点、内村鑑三の無教会主義は宗教におけるフリーランスのごときものだと思っている。その思想は強い個人を前提としている。無政府主義アナーキズムは協同体を否定せず、むしろこれを推し進めた。ゆえに、無教会主義の個人主義は無政府主義を凌駕している。ニーチェの超人に至るのは時間の問題である。