Z世代はいない

日曜日。一週間の始まり。立教大学チャペルのミサに参加する。気持を新たにする。

その後、池袋西口のラーメン店 武蔵屋でホウレン草ラーメンを食す。毎週日曜日に来て、本を読み、食器とカウンターをきちんと片づける人、そんなふうに店員さんに覚えられていて、特別に煮卵をご馳走してくれる。こういうのを恩寵という。この頃、昼食を摂ると、血糖値が急上昇して、その反動でインシュリンが出るのか、非常に眠くなる。帰路の電車ではうたた寝して、江戸川駅まで乗り過ごしてしまった。

ブログのアクセス数が急上昇して、読者登録もばんばん来るので、もしやと思って、はてなブログのトップページを覗いたら、確かに私のブログが編集部のオススメとして紹介されていた。半年ぐらい前に書いた古い記事だった。

正直な気持として、「えー、人様に紹介しちゃっていいのー?」という感じである。私のブログは政治と宗教とその他諸々に満ちているし、現代のポリティカル・コレクトの観点から見ればアウトだろう。そのかわり、SDGsなど流行の概念は言わない。使わない。あれは綺麗に灰汁ぬきされた概念で、つまり、脱政治化されていて、「政治と宗教と野球の話をしない」日本の言論風土に適っているのである。

それと、私はZ世代という概念も使わない。世間的にはITや地球環境や多様性に明るい世代、要するに物分かりのよい世代という風に漠然と思われているが、そんな人々は日本でも欧米でも、昔から存在している。要するに実質がない。虚しい非存在である。こういう広告代理店が拵えた概念を、あたかもスマートかつクールに流通させる日本のジャーナリズムは程度が低い。安倍政権が掲げた「クールジャパン」の方針と何ら変わらないではないか。体制と反体制はこうした快いイメージを媒介にして、結託していく。——。

私は「Z世代」とは言わずに「失われた世代ロスト・ジェネレーション」と呼べばいいと思う。コロナ禍で青春を奪われたのは彼等なのだから。それはまったく同じではないにしても、二度の世界大戦によって青春を奪われた世代と、何かしらの経験を共有している。彼等はクールでもスマートでもない。疫病と政治によって青春を奪われ、絶望した世代だ。彼等は大人の理解と援助を必要としている、半分大人、あるいは半分子供なのである。