文学者

毎日、会社で新聞記事を書いていると、それに飽き足らない自分がいることに気づく。事実ではなく虚構を書きたい。小説を書きたくなるのだ。その理由は自分でもなんとなく分かっていて、多分、新聞記事では私の才能のすべてを使い切ることができないからだ。現代において、言語芸術の極北を行こうとすれば、作家は詩と小説を書かざるを得ない。かたや新聞記事の言語表現は公共性という軛によって、その表現の可能性を制限されてしまう。ベテランの新聞記者が小説家に転身する気持がなんとなく分かり始めた。彼等は初めから文学志望だったのではなく、言葉の可能性を真摯に突き詰めて行ったら、自然に小説家になったのかもしれない。

もちろん、そのように脇目を振るようになったのは、会社の仕事、記者の仕事に慣れてきたことが大きい。それ丈、労働環境が恵まれているのだ。

しかし、そろそろ文学活動を本格的に再開しよう。文学者という意識を、私は再び持ちたいと思う。

そもそも私は歌人の結社に居た時も、周囲の人々から「文学者」と呼ばれていた。当時から幅広い文学の知見を持っていて、けっして、短歌マニアにならなかった。それが私が歌人に成り切れなかった最大の理由かもしれないが……。私には小説家よりも文学者の方が適っているし、更には政治学者よりも向いていると思う。私は何者で、この世でどのような業ができるのか? これはたった6年間の大学の専攻と関係ないのだ。すでに私は10年以上、社会(会社)で働いている。

記者/文学者/伝道者——この三位一体が今後の私の人生を規定していくだろう。