来年の生活をどうしよう、と連休に入って毎日思うのだが、人の職業というものは、己の意志と神の召命との対話で決まるほど単純ではなく、それを心棒にして社会との交渉によって決まると改めて思う。誰しも需要がまったくない職業を選択することはできないし、労働によって生み出す価値の多寡に関わらず、誰かの為になっているという実感は必ず必要なのである。
たとえば、私が新聞記者を辞めて、明日から小説家になると宣言したら、生活が困窮することは目に見えているだろう。勝算がないのに己の立場を危うくすることは社会人のやるべきことではない。ましてや妻子がいる場合は尚更である。多少、賭けに出たとしても、きちんと勝算は見据えて置くべきである。
私の場合、記録文学者に転身するのは難しくはないと思う。この1年間、新聞の6面、8面に市井の人々の伝記を書き続けてきた。それが業界新聞の記者の仕事として正しいのかは疑問だが、記録文学者の仕事としては正道を行っていると自信をもって言える。出版不況で掲載できる媒体は確実に減っているが、まだまだ社会的に必要とされているし、ビジネスとも親和性が高い。
キリスト教文学を書くのはその後でよろしい。まずは自分の記者としての経験と経歴を存分に活かすべきだ。