あの生活とこの生活は並行しているのです。
トーマス・マン『詐欺師フェリークス・クルルの告白』
チャペルキャンプの企画が本格的に始動した。私はキャンプチーフとして、全体を統括する立場に就いている。しかし、その実は多くの人々の親切な働きに支えられていて、私は織田信長にとっての足利義昭のように、プロジェクトの代表(傀儡)に過ぎない。ただし、亡国の「保守」政治家のように、己の罪を人に押し付けたりはしない。キリスト者は知っている。己の十字架は己が背負うしかない。責任の所在は私に在る。
しかし、思う。教会、個人、会社の三つの生活が並行しているのではないかと。この中で教会が光で、会社が影で、個人が闇と言いたいくらいだけど、ここではあまり大きな声で言えない。ただ、今後は影という中途半端な領域を少なくして、光と闇のコントラストを色濃くしたいと思うだけである(あっ、言っちゃった)。
「されど罪の増すところには恩恵もいや増せり1」。暗室でこの世界の人生のネガを見つめた者だけが、最後にポジの写真を現像することができる。仕事柄、写真を覚えた私は、今年の夏も写真を撮り続けるだろう。
- 『ロマ人への書』5章20節。↩