事物と情緒

「タバコの時間だな」

以前、煙草屋に勤めていた友達の紹介で、BOHEM CIGAR NO.6(Tar:6mg, Nicotine:0.6mg)を試してみた。

外箱に"containing 30% of fine cigar leaf"と書かれている。葉巻の葉を30%含んでいるそうだ。確かに、軽いのに芳醇である。「淫蕩」と言ってもいいくらいだ。葉巻シガーの喫味に一脈通じるものがある。珍しいタバコなので、コンビニ、煙草屋になかなか置いてないが、レギュラーの"CIGAR"とともに、メンソールの"mojito"も香り高い。"The rich taste & aroma of distinctive tabacco"の謳い文句は伊達じゃない。愛煙家にはぜひ試してほしい銘柄である。

机の抽斗から数種類のシガレットを取り出す。それから立て続けに喫う。普段、私は煙草を1日2本喫う。まったく口にしない日もあるが、たまには本腰を据えて喫いたい時がある。一度、火を着けたら20分以上楽しむ、パイプを喫っている感覚に近いのだと思う。先日、とある酒場で私がパイプを吹かしていたら、「あれはポーズだ。なんだか鼻につく」と言った輩が居たが、ポーズでも、スタイルでも、何でも結構だが、人は自分に合った調度と習慣を身に着けるのであり、それはやがて一過性の流行モードを超えて、その人の個性を形作るのである。志向/嗜好は先験的アプリオリな要素が強い。こればかりは如何ともしがたいのである。

煙草の話はこれぐらい。読者を十分ケムに巻いたので、次は短歌について書く。

短歌は私にとって、どうして重要な詩形なのだろう。私が短歌に執着するのはなぜか。——短歌を書く時、私は自由になれる。これが最もシンプルな回答だろう。きざな言い方をすれば、私は短歌という詩形に安らいでいる。小説よりも坐りがいいのは間違いないだろう。その理由を少し考えてみた。

私の短歌の師匠の一人である、三井修先生は「短歌は説明するのではない。描写するんだ」と言った。たとえば、こんな一首ができる。

悪場所の酒を飲みたる暁に雨に打たるる陋屋に帰す

所謂、写生である。その意味で客観的な描写を心がけているが、初句に「悪場所」と書かれているように、私の主観が投影されている。事物リアルの中に情緒センチメントを織り込むことができる。そこが私が短歌に居心地のよさを感じる理由の一つである。

しかし、短歌は写生/描写ばかりが能ではない。時にはこんな、観念的な思想詩が書けるのである。

空蝉うつせみが我に信実求むれど我は汝の道に叛きつ

吾ながら自我エゴが強い。けれども、短歌は俳句と比べて、その調べの長さのゆえに、主義主張、もう少し高尚に言えば、思想を表現することができるのである。その意味で、短歌は箴言アフォリズムに近づく。私は歌人である以上に政治哲学者なので、短歌のこの器の広さに負うところが大きい。南原繁が短歌に一方ならぬ情熱を傾けた理由が分かり始めた。凡夫である私に、表現することの楽しみ、苦しみ、そして、それを補って余りある自由を教えてくれた短歌という詩形に私は感謝している。

BOHEM CIGAR NO.6

政治文学と基督教文学

市川聖マリヤ教会の聖餐式に参列した。立教大学の礼拝堂チャペルは、新型コロナの感染防止のために予約制を敷いているので、まだ気軽に足を運ぶことができない。その代わりと言っては恐縮だが、地元の教会に積極的に足を運ぶようにしている。大学のチャペルと地元の教会では信徒の層が明らかに違う。前者は在校生および卒業生とその家族が中心だが、後者はおよそ学歴とは無関係な地元の住民が中心である。都市的=市民的教会と村落的=住民的教会くらいの違いがある。現金なことを言ってしまえば、前者の方が所得と収入は高いだろう。政治学徒はついこんなことを考えてしまう、業が深い人間である。しかし、私は母校のチャペルと同じくらい、地元の信心深い人々が集まる教会が好きである。自身のルーツを確認することと、素朴な敬虔な気持ちになることは繋がっているのである。

恩寵(Gnade, Grace)の概念を手がかりに、文学と政治学を切り結ぶことができないか考えている。政治文学と基督教文学の可能性である。社会派と浪漫派は矛盾しない。両者は全体小説として構築することが可能なのではないか。トーマス・マン『ファウストゥス博士』とシェルドン・ウォーリン『政治とヴィジョン』を読み返している。創作ではなく、試論として、今月中には完成を見たい。

われわれは、キリスト教と政治との対抗についてこれまで述べてきたことを、つぎのように要約できるであろう。すなわち、キリスト教の学識は、政治思想の伝統を抹殺するどころか、それに再び活力をあたえたのである——恩寵は政治の学を亡ぼすことなく、むしろそれを完成する1


  1. シェルドン・S・ウォーリン(尾形典男、福田歓一、佐々木武、有賀弘、佐々木毅、半澤孝麿、田中治男/訳)『政治とヴィジョン』(福村出版、2007年)158頁。

微睡の後に

睡眠不足である。この1ヶ月くらい、約3時間睡眠で稼働している。布団に入ると寝落ちしてしまうので、入眠は問題ないが、夜半、目を覚ましてしまうのである。その後は夢うつつ微睡んでいる。中途覚醒である。

先日、躁鬱病の基本薬である抗精神病薬が無くなりそうだったので、半年ぶりに精神科を受診した。私が不眠を訴えると、先生は「依存性の少ない、マイルドな睡眠薬を処方しましょう」と、デエビゴ 6mgを頓用として処方してくれた。これで万事解決かと思いきや、私は今日に至るまで、この薬剤を服用していない。睡眠薬と酒の飲み合わせを忌避しているからだ。それなら、酒を飲むのを控えればいいではないかということになるが、それでは酒屋が卸さない。夜のウイスキー・タイムは私の生活の一部になっているし、社交と飲酒は私の人生に欠くべからざるものである。では、私に睡眠薬は不要なのだろうか? 否。週1、2回は休肝日を設けて、その夜に睡眠薬を服用すればいいだろう。長く、深く眠ることで、心身を休息できることを期待している。人生に平和は少ないのだ。これからも錠剤タブレットを護符にして生きる日々が続きそうである。

今日の昼下がり、金町駅前の太陽堂書店から、注文した本3点を入荷したと電話を受ける。実は今月頭に、図書館の『吉行淳之介全集 第2巻』の頁にコーヒーをこぼしてしまい、弁償に相なったのだ。上記の本はすでに絶版になっているので、図書館から違う本の購入を指示された。とまれ、図書館の全集に穴を空けてしまったことは心苦しいが、汚損した本をこちらで引き取ることができる。『全集 第2巻』には「鳥獣虫魚」が収録されている。これは名作、思い出深い短編である。結果として、私の手元に残ることになったのも、何かの縁だと思いたい。

さ、筋トレして目を覚まして、自転車に乗って金町まで行きますか。

A Empty Holiday

何の予定もない休日。幾日ぶりだろうか。外出は近所の自動販売機でペプシ・コーラを買うことと、最寄の郵便局にハガキを出すことくらいである。

『朝日新聞』誌上の「朝日歌壇」に投稿した。官製ハガキに万年筆で清書すると、厳粛な、清々しい気分になる。新聞歌壇の当選、落選に一々一喜一憂しないけれど、私は『朝日新聞』『東京新聞』『日本経済新聞』の三紙を購読しているので、読者のよしみで、気が向いた時に投稿したい。新聞歌壇といえど、選者に作品を見い出された時、茫漠たる宇宙の中の一抹の理解者に掬われた気持ちになる。この経験は大切である。

とはいえ、新聞歌壇は総じて程度が低い。低俗である。修辞レトリックは稚拙だし、内容も毒にも薬にもならないものが多い。一般市民のレベルはこの位のものなのかと痛感させられる。100年前のアマチュア歌人達の方が遥かに水準が高かったのではないか。文化ないし文学に関して言えば、日本人は進歩していない。むしろ退化していると思わざるをえない。文化の起源は耕作と筆耕にある。文字が文化を作るのだ。ゆえに、文化は厳しい修練の産物である。閑話休題——。甘い所はあったが、新聞歌壇に比べれば、私が以前所属していた結社誌『塔』の方が遥かに水準が高かった。結社ソサイエティが独自の文化カルチャーを形成することも納得させられる。けれども、私は『塔』には、結社には戻らない。たくさんの人々が非才の私に目を掛けてくれたにもかかわらず。新聞歌壇で腕試しをしたら、総合誌『短歌』『短歌研究』などで、連作を発表するように努力するしかないだろう。これでも一応、フリーライターなのだ。私の中にはやみがたい無教会派の気質がある。

南原繁『政治哲学序説』を読む。この人は政治学者/政治哲学者だけど、レフ・トルストイや、ステファン・ゲオルゲの思想を、政治思想/政治哲学として真面目に検討するなど、文学に対し、関心と造詣が深いのである。南原には、一般に文学など、政治現象として見なされない文化事象に対し、政治の萌芽を見つけ出す眼力がある。しかもそれが、現代の社会理論、文芸理論を学習した連中よりも、遥かに自然にできるのである。戦前の大正教養主義の只中で知的形成を遂げた人々の凄さはこの辺にある。

近代短歌は発展と衰退の途上にある。私は現代短歌の口語的、日常的表現に馴染みきることができない。頽落した日常生活の虚偽の意識を、芸術の真実の世界に持ち込むことは許されない。私は戦前/戦中/戦後に回帰したい。次は近藤芳美に移ろう。

言葉の凝集力

とりあえずブログを毎日更新してみたが、文章の密度が明らかに低下した。文章に凝集力がない。普段、机の前で刻苦呻吟しているのは、この圧力を高めているのだと分かった。

「文学的」というのはそもそもどういう意味だろうか。文体スタイルに遊ぶ。修辞レトリックに遊ぶ。虚構フィクションに遊ぶ。いろいろな側面があるだろう。しかし、事務的な文章、新聞記事的な文章との決定的な違いは、なるべく複雑にすること、解釈の余地を拡げること、それによって、文章に含蓄を持たせる、深度を深くするのだろう。

文学を書くためには、独特の思考様式、心理状態が求められる。芸術と病気、就中、文学と病気の関連が認められるのはそのためである。短歌を書いていると分かるが、日常的、口語的な言語の慣習から外れた韻文を書くためには、ある種の憑依、トランス状態が必要である。日野啓三はそれを『書くことの秘儀』と言った。

職員休憩室

今夜は友人とドライブに行くので、会社の休憩時間中にブログを書いている。

「会社」と言ったが、私の勤務先は株式会社ではない。社会福祉法人である。「会社」と言う感じはあまりなく、「施設」ないし「事業所」という感覚に近い。経営者も、この組織を「法人」と呼んでいる。労働者も「社員」ではなく「職員」と呼ばれる。私達は「入社」ではなく「入職」してきたのだ。

この法人に入って以来、私/私達は休憩室で食事を取っている。時間の制約があるためか、それとも、ただ億劫なためか、外食に行くことはほとんどない。社員食堂はあるにはあるが、足立区の事業所から松戸市のそれに異動してからは、それもないので、今ではカップラーメンとおむすび(あるいはパン)が、出勤日の私の主な昼食である。

「粗食」と呼ぶにはあまりにも貧しい。或る労働者階級の食事である。

総武線の席に坐りて

最近「ブログを書いていないじゃないか」というお叱りを頂く。

実際の所、ブログだけではなく、今、書いているものと言えば、短歌と日記、そして、こまごまとした文章くらいで、総じて生産量は低い。

ブログが収益にならないことを知ってしまったから、モチベーションを喪失したのではないか。確かにそれは一理あるかもしれないけれども、本当の問題は実生活の方にある。酒の飲みすぎである。しかも、なお悪いことに飲み歩いているから、書けない/書かないのではないか。中年に足を踏み入れるにつれて、私も巷間の悪習を身に着けてしまったのかもしれない。酒場通いは最近自粛しているけれども、それでも家では仕事と勉強を放擲して飲酒するのだから、酒に溺れているのである。仮に一抹の弁解の余地があるとすれば、近頃は不眠症が昂じて、体調不良が続いていたけれども、これはまたの機会に書く。

今、横浜から小岩までの帰路、総武線普通電車の座席に坐りながら、脚の上にノートパソコンを置いて、この原稿を書いている。この体勢、案外楽に書けるものだ。これからは気軽にノートパソコンを持ち歩いて、暇さえあれば原稿のライト、リライトをしていきたい。時間と場所にこだわらない。総生産量を上げるのだ。

予め原稿を書き溜めておく。この日より、当ブログは毎日更新する。