政治文学と基督教文学

市川聖マリヤ教会の聖餐式に参列した。立教大学の礼拝堂チャペルは、新型コロナの感染防止のために予約制を敷いているので、まだ気軽に足を運ぶことができない。その代わりと言っては恐縮だが、地元の教会に積極的に足を運ぶようにしている。大学のチャペルと地元の教会では信徒の層が明らかに違う。前者は在校生および卒業生とその家族が中心だが、後者はおよそ学歴とは無関係な地元の住民が中心である。都市的=市民的教会と村落的=住民的教会くらいの違いがある。現金なことを言ってしまえば、前者の方が所得と収入は高いだろう。政治学徒はついこんなことを考えてしまう、業が深い人間である。しかし、私は母校のチャペルと同じくらい、地元の信心深い人々が集まる教会が好きである。自身のルーツを確認することと、素朴な敬虔な気持ちになることは繋がっているのである。

恩寵(Gnade, Grace)の概念を手がかりに、文学と政治学を切り結ぶことができないか考えている。政治文学と基督教文学の可能性である。社会派と浪漫派は矛盾しない。両者は全体小説として構築することが可能なのではないか。トーマス・マン『ファウストゥス博士』とシェルドン・ウォーリン『政治とヴィジョン』を読み返している。創作ではなく、試論として、今月中には完成を見たい。

われわれは、キリスト教と政治との対抗についてこれまで述べてきたことを、つぎのように要約できるであろう。すなわち、キリスト教の学識は、政治思想の伝統を抹殺するどころか、それに再び活力をあたえたのである——恩寵は政治の学を亡ぼすことなく、むしろそれを完成する1


  1. シェルドン・S・ウォーリン(尾形典男、福田歓一、佐々木武、有賀弘、佐々木毅、半澤孝麿、田中治男/訳)『政治とヴィジョン』(福村出版、2007年)158頁。