今週の主日に、立教学院諸聖徒礼拝堂の会衆委員会に連なる人々と一緒に、月島のもんじゃ屋 片岡に行った。私はチャペルの会衆委員になって2年目だが、納涼会の参加は初めてで、信徒とその家族、学生諸君、チャプレンの垣根を越えた集まり/交わりが新鮮だった。バイト先の職場には、1ヶ月前から希望休を申請していて、働きづめの日常に起こった夏のバカンスを心から楽しむことができた。
以前はもんじゃを焼くのは苦手だったが、チャペルに縁のある片岡に通うことで、それも克服できた。教会(チャペル)に通うことで、私の人生はつまらない自己意識を越えて、本当に豊かになった気がする。教会に通わなければ、私は30半ばくらいで発狂していたと思う。いや、正確に言えば、今でも小さな気違いはたびたび起こるが、幸いにして死に至る病には罹っていないようだ。
神学者のトマス・アクィナスは、人の幸せは社会的に生きることにある、と言った。ただし、彼の言う社会は、現代の神に背いた、資本と暴力が支配する社会とはまるで異なる。彼の意味する所は、神に立ち帰り、自らの主に仕える人々と共に生きるのは、幸いである、ということである。