キリストは神の子にして、神の言葉である。このシンプルな事実は『ヨハネ伝福音書』1章1節に記されている。
太初に言あり。言は神と偕にあり、言は神なりき1。
この一節で、キリストは父なる神と共にあり(一体であり)、父なる神と同じ神性を備えていることが明かされる。また、言葉の性質上、キリストは神と人、あるいは人と人の間の仲保者であり、両者を和解し、執り成しを行うことが予期されている。
このように、神・言・霊の三位一体は、本質において同じ神でありながら、言と霊はそれぞれ異なる役割が期待されているのであり、両者はこの世界にあって、神と人、人と人の間に臨在し、和解を促す。この意味において、キリスト教は同じ一神教であっても、ユダヤ教、イスラム教とは異なり、高度に関係を重視する宗教として始められ、今に至っている。
さて、『ヨハネ伝福音書』を続けて読んでいこう。
この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし2。
この一節によって、人間を初めとした神の被造物は、言葉によって存在していることが分かる。イエス・キリストは神の言葉が受肉して、人の子になったが、アダムも同じように神の言葉が受肉して人になったのではないだろうか。その点、人は神の似姿に習って作られたのであり、クリスチャンはキリストの似姿である。
キリストは神の言葉それ自体であるように、アダムはその内に神の言葉、神の息吹を宿している。この事実は神の子に次いで、人の子もまた神性に与っているのであり、神の似姿として尊重すべきであることを示しているのではないだろうか。それゆえ、キリスト教は近代の人間中心主義よりも遥かに根源的に、人間の自然権、人権を基礎づけ、擁護している。
以上のことを鑑みると、啓示神学と自然神学の相克・矛盾は弁証法的に止揚されるのではないだろうか。人間が神の似姿を持ち、自身の内に神の言葉を宿していると考える——要するに自身に神性があると見なすのは、人間を高ぶらせると同時に、人間を愛する契機を与えるのではないだろうか。
キリスト教神学において、人が神と出会うように、同等の重要性をもって、人が人と出会うのを重視し、大事にするのは、神の子と同じように、それ自体ではないにせよ、人の子もまた、神の言葉を宿している事実に存するのではないだろうか。たとえ、人はこの世で神に出会えなくても、人に出会うことを通じて、その言葉を聞くことによって、神を知るのである。
現代神学において、被造物たる自然の保護を訴えるのは、かつて啓示神学によって否定された自然神学を復権し、両者を弁証法的に止揚させようと努めたことが大きいのではないだろうか。しかして、現代神学の学徒が、啓示神学と自然神学の間の矛盾を殊更に強調するのは無意味である。そして、おそらく、小田垣雅也のネオ・ロマンティシズムの神学もこの試みの途上にあるように思える。