新聞不況

昼下がり、街を歩いていると、ふと、昔、私が新聞屋(新聞販売店)に勤めて、ミニコミ紙を作っていた時のことを思い出した。

その新聞屋は「読売新聞」の販売店だったのだが、2012年当時の読売新聞東京本社の営業マンはいかにも傲慢だった。その仕事の姿勢はふんぞり返っていると言うに他なく、新聞屋の二代目、三代目の社長と胸糞の悪くなる表情を浮かべて談笑していた(「談合」あるいは「癒着」という言葉を想起した)。彼等から見れば、私たち販売店の社員は虫けらのような存在だったし、私たちの社長に対しても、どこか見下しているように見えた。記事一つ書けない一介のサラリーマンのくせに。

あれから10年以上が経ち、新聞不況が深刻化したことで、彼等も昔日の態度を改めざるをえないだろう。もしかすると、リストラされているかもしれない。そう思うと良い気味だった。だんだん気持が良くなってきたので、ついでに私が昔勤めていた新聞販売店を調べてみた。

倒産していた。

具体的な企業名を挙げることは避けるが、2023年12月に破産申告を開始し、負債額は2.5億円に及ぶ。

今は亡き初代社長には、編集のイロハを教えてくれたことで感謝しているが(特にデザインに関しては、今勤めている業界新聞よりも遥かに高度だ)、二代目の社長には特に恩義はない。しかし、世間と人生の無常を思わずにはいられなかった。

チャペルキャンプ始動

あの生活とこの生活は並行しているのです。

トーマス・マン『詐欺師フェリークス・クルルの告白』

チャペルキャンプの企画が本格的に始動した。私はキャンプチーフとして、全体を統括する立場に就いている。しかし、その実は多くの人々の親切な働きに支えられていて、私は織田信長にとっての足利義昭のように、プロジェクトの代表(傀儡)に過ぎない。ただし、亡国の「保守」政治家のように、己の罪を人に押し付けたりはしない。キリスト者は知っている。己の十字架は己が背負うしかない。責任の所在は私に在る。

しかし、思う。教会、個人、会社の三つの生活が並行しているのではないかと。この中で教会が光で、会社が影で、個人が闇と言いたいくらいだけど、ここではあまり大きな声で言えない。ただ、今後は影という中途半端な領域を少なくして、光と闇のコントラストを色濃くしたいと思うだけである(あっ、言っちゃった)。

「されど罪の増すところには恩恵めぐみもいや増せり1」。暗室でこの世界の人生のネガを見つめた者だけが、最後にポジの写真を現像することができる。仕事柄、写真を覚えた私は、今年の夏も写真を撮り続けるだろう。


  1. 『ロマ人への書』5章20節。

スタートアップ

昨夜、友達と久しぶりに我が家の書斎で飲む。この頃は酒場から足が遠のき、お互い飲むのはもっぱら家になっている。もちろん、今でも焼鳥屋やバーは好きだし、一人、二人、あるいは数人で少々愚かなことをやるのは嫌いではないが、一年後、数年後先の人生の厳しさを考えると、おのずと財布の紐は締まらざるをえない。

火酒ウイスキーをイッパイやりながら、独立するための事業について、考え、話し合う。私は出版(執筆・編集)を軸に、時折、広報、広告に携わりたいと思う。こんな生半可な気持で起業できるのかと思われるかもしれないが、世のすべての事業は一人または数人の片手間から始まったのである。試行錯誤と成功体験を積み上げることで、少しずつ大きくなってくる。覚悟も付く。それでいいではないか。

召命の場所

昨夜、チャペルキャンプについて、オンラインミーティングを行った。昨年、コロナ明けで再開した時、私はプログラム担当者の一人だったが、今年は責任者チーフとして全体を統括する立場になった。プログラムを充実することも大切だが、まずは募集に力を入れなければならない。昨年に比べて、学生は来てくれるだろうか。キャンプのテーマは「キリストに立ち帰り、キリストと共に居る」。

しかし、会社では役職は全然付かないのに、教会では信徒の立場であれ、会衆委員やキャンプチーフなど、責任のある立場を任されるのはどういうことだろうか? 私はこれは立派な召命だと思う。私の才能タラントを発揮する場所は、この世界にちゃんとある。チャペルキャンプはその事実を確認する過程なのだ。

毎日書く

最近、ブログの更新が滞っていたが、今後は基本的に毎日更新したい。週1回更新も考えたが、スケジュール管理が難しく、それならば毎日更新する方が楽だと考えたからだ。それにはてなに年間使用量を払っているので、毎日更新しないと元が取れない気がする(別に儲かる訳ではないけれど)。

この頃は夜眠っても3時間くらいで目が覚めてしまうし、全然熟睡できた感じがしない。精神科に行く機会を逃したので、薬をケチったというのもあるが、やはり、これからの生活が不安なんだと思う。キリスト教を支えに堪えるしかないが、それが崩されると深淵が見えるので、仕事の選択や生活の習慣など、慎重に行動することが必要だ。

自由の過程

この頃、ブログの更新が途絶えたが、別に止めた訳ではない。しかし、精神的に不調だったことは確かだ。私は今、サラリーマンとして会社の仕事はこなしているが、ライターとしては死んでいる。そのために鬱に落ち込んでいる。もちろん、原因はそれだけではないが、その事実はハッキリ記すべきだ。

来年の仕事と生活は楽ではない。このことは肝に銘じるべきだろう。朝、創作して、夜に働く生活が続くはずだ。好きなことを仕事にするのだから、これくらいの苦難は堪えなければならない。

私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達からは希望が生まれるということを1

この苦しくも楽しい創造の過程を経なければ、本当の自由は得られないのだから。


  1. 『ロマ書』。

豊富な時間

GWは宴会に次ぐ宴会、パーティーに次ぐパーティーと遊び歩いているが、実は普段よりも規則正しい生活を送っている。総体的な酒量はむしろ少ない。こんなに社交をしていていいのか、と思うが、この人々の交わりが私の存在を支えているので、感謝しかない。昨日は音楽家の友人のお母さんに、神の三位一体について解説した。

22時に寝て1時に起きる。そして作業をする。睡眠時間は3時間だが、特に異常なことだと思わない。珈琲を飲んで、たまに煙草を吸う。深夜、酒を飲むことを控えるようになったが、かといって、珈琲を美味いと思って飲んでいない。仕事と勉強のために仕方なく飲んでいる。昔のように砂糖とミルクを入れればいいのだろうか。作業中、坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」を聴く。

来年から文学と正面から向き合うので、そのために準備をしている。一方、神学の勉強もしなければならないので、けっこう忙しい。会社の仕事と教会の仕事、あと個人の諸々の生活があるけれど、一つも落とすことなく、今の時を丁寧に取り組みたい。