BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

Peace of Reading

会社を辞めて空いた時間を家政と読書に充てている。家政は料理と掃除、資産運用に至る様々な行いを含んでいるが、自宅を拠点に個人事業を営むとなると、その奥深さ、難しさを改めて実感している。

今年、特に今月は仕事の礎を築くために、執筆よりも読書をして過ごす。読み物は聖書、文学書、神学書、思想書が中心だが、今後は起業・経営・会計に関するビジネス書を加えようと思う。そうなると、家中が本でイッパイになるが、読了して不要になった本は片っ端から売るなり捨てたりしたい。

しかし、こうして纏まった読書の時間を確保できるのは学生時代以来、いや、それ以上だ。窓際の椅子に坐り、秋雨の音を聞きながら、珈琲を片手に読書に耽ると、他人の文章を鏡にして、自分を見つめ直す良い機会になる。読書は精神の安定にも寄与するようで、本の頁を捲っていると穏やかな気持になる。

今は纏まった収入はないが、それでも不思議と不安はない。生活が荒れなければ生計は後から付いて来るし、本質的な所では、神の愛、己の力を確信しているのだろう。それなら最初からこうすれば良かったのに、と思うが、そうは行かないのが人生である。失敗することも多いけど、前を向いて歩いて行きたい。

モーニング

9月30日に株式会社環境新聞社を退職した後、持ち帰った(?)仕事を10月2日の校了日にすべて終わらせた。これで前職の会社との関係はすべて解消されたことになる。今後、ルポルタージュなどの原稿を持ち込めば、採用される見込みがあるが、今の所、その予定はない。

その後、先週の土曜日に至るまで、こまごました教会の業務を片付ける以外は、特別仕事をすることなく過ごした。その代わり、平日、ファミリーレストランでモーニングを食べたり、友達の家の晩餐に招かれるなど、けっこう優雅な生活を送っている。

年内、特に今月中は読書を中心にした穏やかな生活を送るように努める。文学書、神学書、思想書、技術書が中心になる。読書の量に反比例して酒は控える。生活習慣を見直して、今後の仕事の礎を築くのだ。

今朝は立教学院諸聖徒礼拝堂のミサに参列する。受付当番なので慌ただしく過ごすが、始発の電車に乗って、朝マックを食し、気持を整えるのもいいだろう。池袋の朝はきれいだ。

介護の価値を問い直す

『シルバー新報』9月27特集号を発行した。特集テーマは「介護の価値を問い直す!」。

【特集】介護の価値を問い直す! 私たちが手にしたい未来を描こう|シルバー新報 | 介護の文化を創る専門紙

私は10面「普通の人々が福祉の担い手に 「専門」の垣根を越えた支援を実現 バザールカフェ」、11面「必要な地域資源は自ら作る 保険内・保険外事業のあり方を議論 寝起きでプラケア会議」を執筆した。どちらも持てる力を出し切った、物書きとして記念すべき仕事になった。バザールカフェでは狭間明日実さん、寝起きでプラケア会議では大城五月さんに大変お世話になった。この場で改めてお礼申し上げたい。

今月をもって私は環境新聞社 シルバー新報編集部を退職するが、10月4日の著者インタビューとルポルタージュを担当しているので、最後の最後まで気が抜けない。仕事の質量を鑑みれば、土日も仕事をしなければいけないが、生憎まったくやる気がでない。土曜はユダヤ教の安息日。少し骨休みしますか。

京都出張

9月20日、京都に出張。日本基督教団が支援するコミュニティカフェを取材したあと、日本聖公会 聖アグネス教会を訪問する。前者については会社の業務なので、詳しく書けないが、運営財団の理事を務める牧師から直接話を聞くことができ、社会福祉を下支えする、キリスト教の多彩な実践を学ぶことができた。

聖アグネス教会では立教小学校 元チャプレンの小林宏治司祭にお会いした。2時間ほど歓談して、チャペルの近況、個人的な信仰について話したあと、一緒に夕の祈りを捧げた。晩餐は近所の食堂でお晩菜をつつきながら、麦酒ビールをカンパイ。

——連休の最終日、自宅に持ち帰った大量の仕事を前に慄く。原稿を執筆する前に、90分のテープを文字に起こさなければならないので、気が重いが、業界紙の記者としての仕事を最後まで全うしたいと思う。

補遺

それにしても、最後に会社の経費でキリスト教の取材ができたのは、大きな喜悦よろこびだった。

聖アグネス教会

追い込み

退職まであと10日に迫った。しかし、9/27の特集号に向けて、準備を進めるなど、多忙な日々を送っている(10/4号の記事も任されているが、はたして今月中に入稿できるのだろうか)。今日は京都に取材に行く。15年ぶりに新幹線に乗るし、慣れない土地で緊張しているが、最後の大仕事のうちのひとつなので、腹を括って頑張りたい。仕事の都合上、日帰りになるが、同志社大学チャペル、聖アグネス教会などを訪ねたい。

10月以降は静養しつつ、年明け以降の仕事の仕込みに努めたい。ライターとして今できることは、署名記事を増やすこと、本をどっさり読むこと、人脈を作ることである。そのためには時間と労力と資金が必要になるが、駆け出しスタートアップで出し惜しみしてはならない。

平和 + 自由 > 健康

就寝後3時間くらいで目を覚ます。今日は2時半に起きた。教会の仕事を片づけたり、洗い物をしたり、コーヒーを淹れたりする。これが普通になりつつある。睡眠時間は短いが、特別、病気だと思っていない。薬を飲んでも飲まなくても(睡眠時間は)変わらないので、鬱などの不都合がなければ飲まないでいる。健康に気を遣い過ぎてはいけない、と今は思う。遅かれ早かれ、人の肉体は滅ぶ。健康に生きるよりも、平和に、自由に生きる方が大事なのだ。宿痾を受け入れた人間はそういう心持になる。

今日は日本聖公会東京教区/北関東教区の合同礼拝が、立教大学新座キャンパス附属の聖パウロ礼拝堂で執り行われる。チャペルジャーナル『レンガと蔦』の原稿依頼のために行くが、神の御許に人々が集い、働く場に自分を列ねることを通じて、己の限界を拡げたい気持がある。去年、洗礼を受けてから、現在に至るまで、私は会社でなく教会の働きを通じて、本当に逞しくなった。人が羨む程である。私の存在史において特筆すべき事柄だ。

早く起きた朝は、日が照る前に家をでますか。

文学の憂鬱

コレと言った原因はないが、なんとなく憂鬱である。人間ひとびとの愛が信じられなくなっている。そんな時は抗精神病薬を飲んで、神経細胞間のドパミン濃度を整えればよいが、たまには憂鬱になるのもいいだろう。小説家の吉行淳之介は「小説を書く時は少し鬱の方がいい」と言っていたが、毎回アゲアゲの文章を書いても、読者に飽きられるだけだろう。毎回、新たに原稿を起こす時は軽い興奮を覚えるが、そもそも文章を書くという行為自体が憂鬱なのである。憂鬱——これが人間の文化の正体である。なので、晴朗な人、絶えず元気イッパイな人には文学ができないのである。

小説を書きたいが、書けないでいる。生活環境、体質、体調などいろいろな要因があるが、まず第一に挙げられるのは勉強不足である。学生時代、小説はたくさん読んだが、卒業後、社会生活を送るにつれて、次第に遠のいてしまった。その代わり、評伝などのノンフィクションはたくさん読んだし、自分でも新聞紙上で盛んに書いたが、文体と構成が安定するにつれて、次のステップに進みたくなった。それが小説である。

小説も取材が必要だが、評伝、ルポルタージュの手法と大きく異なる。新聞記者のように正式に取材ないしインタビューを申し込むのではなく、小説家はさりげない日常の会話から材料を取るような、もっと自然な方法を取る。どちらが「良い」という訳ではなく、作品に応じて、両方使い分ければいい。勤め人からフリーになって、時間の制約上、正式オフィシャルな取材の機会は減るのかもしれないが、その分、作品の質も変わるのではないか。その事態に備えるために、私は今、憂鬱なのではないか、と思う。