顔と面

今週もいろいろあったが、それをいちいちブログに書くと生活に支障があるので、すべてスタンドアローンの日記「return 0」に克明に書き留めてある。思うに、この頃の私のブログの不振は、精神的スランプだけでなく、単純なネタ切れにその原因を帰するべきだと思う。今の私はアウトプットも足りないが、インプットも足りない。そんな状態だと思う。

私は文士ライターとして生きて行こうと思い定めてから、読書よりも執筆に重きを置いてきた。基本的にその姿勢は正しいと思う。しかし、この頃の生活と芸術のスランプを思うと、読書と執筆は車の両輪であることに気づいた。読書は紛れもなく、私の執筆の意欲を増し加えてくれる。物知りになる必要はない。情熱に火を着けて、様式スタイルを強くする。ただ、そのために読書をすればいい。そして、その要になるのは『聖書』、特に『福音書』である。

私も実生活を送っているので、それを逐一ブログに書いてしまうと、生活に支障が出てしまう。だから、ほとんどのブロガーは匿名で書いているが、作家志望の私はそれはしたくない。卑怯だと思う。と言うと語弊があるが、歴史的に見て、匿名は作家の緊急避難的措置だ。表現は古い面を捨てて、顔を洗い、また新しい面を作る行為なのに、ずっと古い面を付けているのはおかしいだろう。芸術家は一見、在りのままの顔を曝しているように見えるが、実際は芸術を通じて、顔と面を作っているのである。芸術家は一瞬の幕間に仮面を外して素顔を見せる。そのスリルが楽しいのである。

御顔を隠しぬ

新聞の第8面に7段分の記事を書いたが、自分の仕事の至らなさを思う。しかし、突貫工事として出来はまずまず。あと、6ヶ月で十分なクオリティに仕上げたい。

ホワイトホースを飲む。以前は侮っていたが、これはこれでクセがなくて美味いのではないか。瓶の形も楚々として美しい。サントリー・ホワイト、バランタイン・ファイネストに並ぶ常備酒に加えたい。

魂の夜。神に見放されていると思う。旧約聖書の表現を使えば、「エホバ御顔を隠しぬ」。死の影の谷を歩み通したい。

チャペルキャンプ準備中

チャペルキャンプの申し込みを締め切り、参加人数が確定した。

率直に言うと、人が少ないなー、という印象。3年ぶりに再会した昨年よりも減っている。キャンプチーフの私の力不足と言えばそれまでだが……。

とはいえ、学生も参加してくれるし、人数が少ない分、落ち着いた、濃密な体験ができるような気がする。初めてキャンプの責任者を引き受ける身としては、これぐらいがちょうどいいかもしれない。

準備をする過程で、課題や改良点も見つかった。昨年と今年は手書きの申込書を用意したが、来年からはGoogle FormとQRコードを用意した方がいいだろう。申し込みしやすく、かつペーパーレスに努めたい。

プログラムの策定も本腰を入れ始めた。8月17、18日の1泊2日。いと高き清里で、皆の期待に応えられるように頑張りたい。

第三者評価

忙しい。会社の仕事だけでなく、教会の仕事もクリティカルな領域に入ってきているので、気が抜けない。気を引き締めて行こう。

昨夜、必死で仕上げた自分の専門外のデザインに関する原稿を先方に送る。翌朝、メールボックスを開けると、「いい原稿ですね」と褒めてくれた。先方も編集・執筆に携わっているので、私はその言葉を素直に受け取った。嬉しかった。

私は社内では大して評価されていないが、社外の取材先は結構よい反応をくれる。肝心の読者にはどう読まれているかは知らないが、社内よりも社外で、お客さんに大事にされているのであれば、そこを起点にすればいいのではないか。お客さんは私の拠り所である。ただし、神様ではない。神様はいと高き所にちゃんと居るから。

ひとりじゃない

あなたがたは、今悲しんでいる。しかし、私はまたあなたがたに会い、あなたがたの心は喜びに溢れる。その喜びを誰も奪うことはできない。

『ヨハネによる福音書』16:22

単純で力強い言葉だ。キリスト教の文脈だと、イエスの復活、再臨の時を指しているけど、特定の宗教に限定されない、普遍的な言葉だと思う。『ヨハネ傳福音書』を読むと、キリスト教ないしイエス・キリストの本質は喜びだと分かる。悲しい時にこれを読むと、癒され、強められる。これだから、『聖書』を読むのを止められない。

今週からすごく忙しい。仕事にケチを付けられて、落ち込む日もあるけど、時には愉しいことがある。難癖付けてくる奴は私のことを知らない人間だ。私の理解者は必ずいる。ひとりじゃない。「信仰とは出会いだ」とカール・バルトは言ったが、『ヨハネ傳福音書』はそう思わせてくれるのだ。