Legend

国際福祉機器展(H.C.R.2023)が閉幕した。最終日、「シルバー新報」と「月刊ケアマネジメント」のブースに、前編集長の川名佐貴子さんが訪問し、私たち編集部員を激励してくれた。

川名さんは同紙の発行部数を大きく伸ばした方で、現在はフリーランスの福祉ライター/編集者/社会福祉士として活躍している。組織に所属していなくても、一人の人間として堂々していて、私のような若輩とはオーラが違う。そして、優れた記者/編集者に総じて言えることだが、非常に楽しい雰囲気を持っている。

善き先輩に会う者は幸い。私も彼女と同じ水準で仕事をしたい。

認識論的誤謬

今週の『シルバー新報』で、認知症の妻を介護した俳人へのインタビューを掲載した。編集長はゲラを読むと、「やっぱり、専門の人が書くと違うわね。まるで『智恵子抄』だわ」と、珍しく褒めてくれた。この仕事に関しては、少しも力まずに大胆な記事を書けたので、自分でも満足している。しかし、その後、別件で腹に据えかねることがあり、サラリーマンなので、ぐっとこらえていたが、その時ふと、文芸編集者に転職してやろうか、という考えが浮かんだ。

しかし、その後、よくよく考え直して、

  1. 文芸編集は過酷

  2. 編集記者の仕事はそれなりに楽しい

  3. そもそも私の最後の職業は小説家しかない

という理由で、この直観は誤謬として退けた。

そもそも私の場合は、編集者よりも小説家になる方が容易だろう。原稿を書くことは大変な作業だが、原稿を待つことも、編むことも大変な我慢を要する。幸か不幸か、私は文芸編集者の忍耐力を併せ持っていないので、最後は小説家になる方がいいと観念した。とまれ、今は介護業界の新聞記者の仕事を楽しみたい。

編集記者

午前1時。夢で企画のことを考えながら起きる。ようやく編集記者ジャーナリストらしくなったじゃないか、と感慨深くなる。私にとって文学者ライターは芸術家だが、編集記者は完全に職人である。最初はこの業を気乗りせず、嫌々やっていたが、近頃はなんだか楽しくなってきた。書いた字のごとく、記事にもよるが、大して苦労しなくても書けるようになったのである。何でも抵抗があるのは最初である。一度、慣れてしまえば、あとは充実と快感に変わる。ちなみにこの編集記者という言葉は、論説委員エディトゥアル・ライターの意味ではない。編集と執筆を同時にこなす記者という意味である。だから、記者ライターであると同時に編集者エディターである。最近は執筆できる編集者、あるいは編集できる記者が少ないと聞く。私は両方できるようになりたい。吉行淳之介の語彙に倣った。この仕事は一生ものだと思う。だからといって、小説家ライターになることを諦めた訳ではない。

Nominication

業界新聞に転職すると、酒を飲む機会が多いことに気づく。夕方になると、皆そわそわしてくる。「人々は乾く」。

私は社交が文明の進歩を促すという福澤諭吉と同じ立場に立つので(その点、孤独は個人が担うべき十字架である)、酒を飲み、社交が華やぐことに大いに賛成である。省みれば、私の友達、恋人は例外なく酒のみだったのような気がする。もちろん、良い思い出ばかりではなく、酒の席の失敗も多々あるが、下町の新聞屋、都会の新聞社、郊外の老人ホーム……それぞれ仕事と業界はバラバラであるが、酒席では皆、上品だった(唯一の例外として、大学は大いに荒んでいた)。

夕方、あるいは夜に人に誘われて飲んでも、午前2時、3時には目を覚まして作業をしているので、個人活動には何の支障もない。私生活プライベートを優先して、飲み会を断る人は多いが、私は大人になるに従って、生活のそういう部分は極力少なくしようと努めてきたので、今の仕事があるような気がする。

物自体

この頃は読書と執筆のモチベーションが下がってしまって、机の前に坐るのも億劫なほどである。ここでひとつウイスキーをで飲んで奮起してみる。TINCUPという、前職の老人ホームの同僚から貰ったアメリカン・ウイスキーだ。華やかなのに落ち着いた味である。正直、EARLYTIMESとの違いが分からないが、私はアメリカンないしバーボンで、老成した風味の銘柄を見つけると嬉しくなる。アメリカのヤンキーもなかなか大人だな、と思う。巷では、シングルモルト・ウイスキーがもてはやされているし、私も美味しいと思うが、誰もが煙くさい大麦のウイスキーを飲みたい訳ではない。野趣味の中に落ち着きと華やぎのある雑穀グレーン主体のアメリカン・ウイスキーを私は讃える。

本題に入ろう。先日、吉行淳之介の『私の文学放浪』を読み終えた。

私は齢をとるにしたがって、ますます文学にたずさわる人物にたいして、懐かしい心持を抱くようになってきている。作品の良し悪しよりも、まず懐かしさが先に立つ。その理由は、戦時中に文学に捉えられたことに求めることができるとおもう。本当の敵は、文学に愛着をもっている人間の中にはおらず、ほかの世界にいるのである。

吉行淳之介といえば、酒場でホステス相手にワイダンを放じ、世間的には軽妙洒脱な印象を与えた作家である。それはそれで間違いではないが、その本質は真面目で硬質である。彼はどこかで、軽い鬱の時の方が、小説を書くのに適していると言っているが、本人も自覚していたように、多少、躁鬱の気があるのだろう。本書の調べはどこか憂鬱メランコリーである。

私は実生活では、ジャーナリズムに身を投じ、散漫な生活を送っているが、吉行淳之介を読むことで、再び文学に立ち返ることができるような気がした。実際には小説を書いていないので、いまだに離反は続いているのだが……。ただし、心に留めて置きたいのは、吉行淳之介も、二流、三流の雑誌記者をしたことがあるし、彼は作家として認められたあとも、雑誌記者の履歴を誇りに思っていたという事実である。おそらく、彼の文学は、彼自身のジャーナリストの資質と深く結びついている。銀座のバーに往く途中、彼はふいに真顔になって言った。

「文学というのは、『物自体』を書くものだと、ぼくはおもう」

Galileo Galilei

午前1時起床。睡眠時間が少ないことに閉口しているが、もう、これでいいような気がする。この時間に起きて、会社とは関係ないブログなどの文章を書いている。ある意味で生産的な時間だ。文章を書くことが生産的な行為と仮定した場合の話だが、私は今、勤め人ではあるが、文章を書いて生計を立てているので、その点は謙遜しなくていい。

『ヨハネ傳福音書』を読了。反ユダヤ的とも批判されるが、私は共観福音書とは明らかに異なる本書の魅力に抗うことができない。神とキリスト者との関係、あるいは、それらと世界との関係をこれほど繰り返し説いた書物は他にない。特に世界との関係は矛盾を込めて語られる。世界を救いたいのか、救いたくないのか、その錯綜した語り口に私はヨハネの人としてのかなしさを感じる。読む人の論理と心情に訴えかける、美しい書物である。

眠れない夜にGalileo Galileiの歌を聴く。最初は『ガンダム AGE』のOPの「明日へ」で知ったのだが、「Kite」なども素晴らしい。出口のない生活にそっと進路と退路を用意してくれる。よい意味で「頑張らなくてもいい」と思わせてくれる楽曲。

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書き抜く

「シルバー新報」の増刊特集号が校了を迎えている。この1週間、自分でもよく書き抜いたなと思う。特に誉めることはしないし、特別にシャンパンを開けることもないが、去年まで老人ホームでケアワーカーとして働いていた男が、介護の業界新聞とはいえ、ジャーナリストとして通用しているのは自分でも驚きである。うぬぼれるつもりはないが、執筆・編集の才能があると思う。私なりの独自の視点で、出版物、印刷物を読んでいるからだ。介護の時は歯を食いしばっても惨澹たる成果だったが、執筆と編集は大して頑張らなくてもできてしまう。この違いは大きい。

アリピプラゾールを就寝前ではなく、朝に飲むようにしたが、それでも2時に起きてしまう。もういいや、という感じで、今はブログを書いている。サミュエル・ベケットは『モロイ』の中で、「お前にもやがて眠れぬ夜が来るだろう」と不吉な予言をしたが、まさしくその通りに生きている。不条理文学は構造的、象徴的に分析、解体するものではなく、その本質は案外単純な経験に基づいているのである。

数年間サラリーマンをやったら、あとは独立してしまおう。生活に不安はあるが、下手なアルバイトはせずにとにかく書き抜くしかない。