BOOKMAN

Takashi Kaneko

言葉に仕える

洗礼と堅信。教会で執り行われた一連の秘蹟は、私が自由を獲得する過程そのものでした。

「今年のクリスマスは教会に行きたい」2020年の日記を紐解くと、こんな一文が書かれていました。拙い言葉ですが、当時の私の紛れもない信仰を表しています。その年、私は立教学院諸聖徒礼拝堂のクリスマス・イブ礼拝に参列しました。チャペルに行くと、司祭の先生方が私を祝福してくれました。「主イエス・キリストの恵みがあなたに在りますように」

それは嬉しく、喜びに満ちた経験でした。当時、私は老人ホームで介護職として働いていましたが、福祉の美名のもとに課せられる過酷な労働に疲れ、病み、傷ついていました。教会に来て、罪を悔い改め、祈り、恵みを享けることは、エゴイズムに満ちた市民社会で負った傷を癒し、奪われた尊厳を回復する作業に他ならなかったのです。

最後に『ガラテヤ人への書』(5:1)を記して、筆を擱きます。

キリストは自由を得させん爲に我らを釋き放ちたまへり。されば堅く立ちて再び奴隷の軛に繋がるな。

インシュリン・スパイク

平日、昼間の仕事が終わると、夕食は基本的に家で食べる。少し前は最寄りのお惣菜屋から焼き鳥などを買って、イッパイやっていたが、夕食は食事に集中したいので、それも止めてしまった(金曜日などは気分転換に良いかもしれないが)。

食べたら寝る。約3年前くらいからそういう生活スタイルを送っている。昼食を食べたら確実に寝る。この頃は夕食を食べても、すぐに布団に横になることが多くなった。意識して、無理してやっているのではない。食べると本当に眠くなるのだ。

たぶん、血糖値の問題なのだろう。食事(特に炭水化物中心)を摂ると、血糖値が急激に上昇して、インシュリンが多量に出る。結果的に血糖値が乱高下して、意識が朦朧となる。いわゆるインシュリン・スパイクという現象だ。

おそらく、アルコール摂取の習慣とも関わっているのだろう。アルコールを摂ると、分解のために糖分を多量に消費するので、低血糖状態に陥る。飲み会の〆にラーメンを食べたくなるのはこのためだ。私は深夜または未明に多量のアルコールを摂取するので、昼間、特に午前中は慢性的な低血糖状態なのだろう。

なんだが酷く身体に悪い生活習慣を送っているように思えてきた。この頃、酒を控えようと努めているのは、身体の負担を少しでも軽くして、仕事のパフォーマンスを上げたいからだろう。

福祉事業事始

今月から私は障害者就労移行支援事業所で、支援員として働いている。その点、企業のサラリーマンとして働いている訳だが、同時に個人事業主としての仕事も継続している。この頃は本来の文筆・編集の仕事以外に、友達の経営者が福祉事業に参入することを検討しているで、そのお手伝いをする運びとなった。

老人ホームの介護職、業界新聞の記者時代の人脈をたぐり寄せながら、見学に対応してくれる高齢・障害福祉事業所を探している。見学の所要時間は1時間くらい。謝礼はお渡しできないが、志に賛同してくれる事業所の方は声を掛けてほしい。

神の言葉と人の言葉

キリストは神の子にして、神の言葉である。このシンプルな事実は『ヨハネ伝福音書』1章1節に記されている。

太初はじめことばあり。ことばは神と偕にあり、ことばは神なりき1

この一節で、キリストは父なる神と共にあり(一体であり)、父なる神と同じ神性を備えていることが明かされる。また、言葉の性質上、キリストは神と人、あるいは人と人の間の仲保者であり、両者を和解し、執り成しを行うことが予期されている。

このように、神・ことば・霊の三位一体は、本質ウーシアにおいて同じ神でありながら、ことばと霊はそれぞれ異なる役割が期待されているのであり、両者はこの世界にあって、神と人、人と人の間に臨在し、和解を促す。この意味において、キリスト教は同じ一神教であっても、ユダヤ教、イスラム教とは異なり、高度に関係かかわりを重視する宗教として始められ、今に至っている。

さて、『ヨハネ伝福音書』を続けて読んでいこう。

このことば太初はじめに神とともに在り、よろづの物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし2

この一節によって、人間を初めとした神の被造物は、言葉によって存在していることが分かる。イエス・キリストは神の言葉が受肉して、人の子になったが、アダムも同じように神の言葉が受肉して人になったのではないだろうか。その点、人は神の似姿に習って作られたのであり、クリスチャンはキリストの似姿である。

キリストは神の言葉それ自体であるように、アダムはその内に神の言葉、神の息吹を宿している。この事実は神の子に次いで、人の子もまた神性に与っているのであり、神の似姿として尊重すべきであることを示しているのではないだろうか。それゆえ、キリスト教は近代の人間中心主義ヒューマニズムよりも遥かに根源的に、人間の自然権、人権を基礎づけ、擁護している。

以上のことを鑑みると、啓示神学と自然神学の相克・矛盾は弁証法的に止揚されるのではないだろうか。人間が神の似姿を持ち、自身の内に神の言葉を宿していると考える——要するに自身に神性があると見なすのは、人間を高ぶらせると同時に、人間を愛する契機を与えるのではないだろうか。

キリスト教神学において、人が神と出会うように、同等の重要性をもって、人が人と出会うのを重視し、大事にするのは、神の子と同じように、それ自体ではないにせよ、人の子もまた、神の言葉を宿している事実に存するのではないだろうか。たとえ、人はこの世で神に出会えなくても、人に出会うことを通じて、その言葉を聞くことによって、神を知るのである。

現代神学において、被造物たる自然の保護を訴えるのは、かつて啓示神学によって否定された自然神学を復権リバイバルし、両者を弁証法的に止揚させようと努めたことが大きいのではないだろうか。しかして、現代神学の学徒が、啓示神学と自然神学の間の矛盾を殊更に強調するのは無意味ナンセンスである。そして、おそらく、小田垣雅也のネオ・ロマンティシズムの神学もこの試みの途上にあるように思える。


  1. 『ヨハネ伝福音書』1章1節。
  2. 前掲書、1章2節。

加賀屋 船橋本店

昨夕、会社の勤めを終えると、まっすぐ京成船橋駅に行かずに、船橋の盛り場に足を運んだ。その日は炊飯器のタイマーをセットしておらず、外食にしようと思い至ったためだ。

向かったのは加賀屋。チェーン店であるが、昼間散歩していて、外から覗いてみると、客間が広々としていたので、気になっていたのだ。

午後6時15分くらいに入店して、キリン・ラガービールとモツ煮を頼んだが、注文の仕方は携帯電話を用いた今どきのセルフオーダーで、ホールスタッフのほとんどは外国人。客から注文を取る気もなく、ただ機械的に料理を提供しているだけだ。人員もダブっているらしく、中には遊んでいる店員も見受けられた。

業態は違えど、飲食経験者としてはNGを突きつけたい。モツ煮はまあまあだったが、その後に頼んだモツ焼きは焼き過ぎで硬く、旨くなかった。揚げ出し豆腐の衣もふやけていた。

やはり、セルフオーダーを導入しないことが、名店か否かの分水嶺になると思う。ちゃんとした店はホールスタッフが直々に注文を取るし、その分、サービスも行き届いている。酒と料理を運ぶだけが仕事ではないのだ。ホール業務の一部を客に委ねて自動化した、加賀屋の判断は老舗として間違っていると思う。

客のほとんどは箸で料理をつつきながら、携帯電話と睨めっこしているので、雰囲気も良くない。安価で気軽に入れるけど、今後あまり行かないかなあ。

夜活

平日は午後7時に帰宅。夕食を食べて、その後、少し眠って、午前0時前後に目を覚ます。さて、その後どうしよう?

酒を飲んで無為に過ごすのは簡単だが、それよりももう少し生産的に過ごしたい。現在、そして未来に備えて、文学と神学の勉強をする、あるいは仕事をするのだ。

昼は当然、会社の仕事で手一杯だ。しかし、幸いなことに定時で帰れる。ならば、夜に(教会ではなく)個人の仕事と勉強を成し遂げたい。これを5年間続けると、その成果は相当なものになるはずだ。

Copilot

深夜にLinuxのRcloneがOneDriveにアクセスできなくなったので、Copilotを使って原因を調べたら解決した。コンピューティングの技術的な問題に対するAIの対応力には、本当に脱帽する。しかし、ライター、特にテクニカル・ライターの職が一夜にしてなくなることを思うと、安穏とした気持ではいられない。今後、ライターは淘汰され、芸術(文学)、報道の二つの分野で活躍することを求められるだろう。

福祉の昼職の仕事に就いて、1週間が経とうとしている。9時始業で8時間労働するのは正直しんどいが、今は研修も含めて、身体を慣らす期間だと捉えて頑張りたい。今日、職員、利用者の方々と外出したが、介護福祉の経験は障害福祉にも活きている。もちろん、その後、出版、飲食をやった経験も。人生に無駄なものはないのだ。