キリスト教文学の可能性

もう一度、小説家を目指してみないか。朝、総武線の揺れる車内で本を読みながらふと思った。

もし、私が腰を据えて、物を書くとしたら、キリスト教文学がいい。私が今まで勉強してきた聖書の知識や、教会の活動の経験などがすべて使えるからだ。

「物書きになりたければ、専門を持たなければ駄目だ」私が今の会社に就職した時に上司がそのようにアドバイスを呉れたが、私はそれは凡人の言として軽く受け止めていた。しかし、己が凡人だと悟った今、この忠告は真面目に実行する必要がある。

「立教をあなたの人生の柱に」。私の母校のスローガンだが、もう少し精確に解き明かせば「キリスト教をあなたの人生の柱に」である。私の人生の中心には主イエス・キリストの福音が鳴り響いているが、ようやく仕事の中心にまで響き渡り始めた。仕事と人生が福音に満たされているということは、キリストの御言葉と御業を世界に伝える証人あかしびとになることを意味する。

とまれ、新聞記者ジャーナリストを引退した後は、キリスト教文学者クリスチャンライターとして身を立てたいこの頃である。