ユダ一撮の食物を受くるや、直ちに出づ。時は夜なりき。
『ヨハネ伝福音書』13章30節
人生において、魂が荒野あるいは暗闇に置かれたことがしばしばある。
我が身を省みれば、施設で介護をしていた4年間がそうだったし、その予兆は出版社で派遣社員をしていた頃に始まっていた。自分が何者かが分からず、どこに向かって歩けば分からない、暗中模索の日々だった。深夜から早朝にかけて、何ガロンの酒を飲んだだろうか……。
十二使徒の一人ユダは、イエス・キリストを裏切り、売り渡したことで知られる。ゆえにどのキリスト教会でも、聖人の列から外されているが、その後、ユダは自身の行いを悔い改め、自殺した。しかし、それでも彼は赦されなかった。「その人は生まれざりし方よかりしものを1」
ユダに思いを馳せること、少なからず彼に同情することは、キリスト教では間違いなく異端に属するが、私は文学的な観点から敢えて、この罪人に関心がある。ユダを知らなければ、私達は悪というものを、また、その罪というものが分からないからだ。それは人間を理解していないということを意味する。
伝道者としてイエスに従う私がいる一方、文学者としてユダを知りたい私がいる。二人の私は全く同じではないが、実は魂の次元で係わっているのである。
- 『マルコ伝福音書』14章21節。↩