A Empty Holiday

何の予定もない休日。幾日ぶりだろうか。外出は近所の自動販売機でペプシ・コーラを買うことと、最寄の郵便局にハガキを出すことくらいである。

『朝日新聞』誌上の「朝日歌壇」に投稿した。官製ハガキに万年筆で清書すると、厳粛な、清々しい気分になる。新聞歌壇の当選、落選に一々一喜一憂しないけれど、私は『朝日新聞』『東京新聞』『日本経済新聞』の三紙を購読しているので、読者のよしみで、気が向いた時に投稿したい。新聞歌壇といえど、選者に作品を見い出された時、茫漠たる宇宙の中の一抹の理解者に掬われた気持ちになる。この経験は大切である。

とはいえ、新聞歌壇は総じて程度が低い。低俗である。修辞レトリックは稚拙だし、内容も毒にも薬にもならないものが多い。一般市民のレベルはこの位のものなのかと痛感させられる。100年前のアマチュア歌人達の方が遥かに水準が高かったのではないか。文化ないし文学に関して言えば、日本人は進歩していない。むしろ退化していると思わざるをえない。文化の起源は耕作と筆耕にある。文字が文化を作るのだ。ゆえに、文化は厳しい修練の産物である。閑話休題——。甘い所はあったが、新聞歌壇に比べれば、私が以前所属していた結社誌『塔』の方が遥かに水準が高かった。結社ソサイエティが独自の文化カルチャーを形成することも納得させられる。けれども、私は『塔』には、結社には戻らない。たくさんの人々が非才の私に目を掛けてくれたにもかかわらず。新聞歌壇で腕試しをしたら、総合誌『短歌』『短歌研究』などで、連作を発表するように努力するしかないだろう。これでも一応、フリーライターなのだ。私の中にはやみがたい無教会派の気質がある。

南原繁『政治哲学序説』を読む。この人は政治学者/政治哲学者だけど、レフ・トルストイや、ステファン・ゲオルゲの思想を、政治思想/政治哲学として真面目に検討するなど、文学に対し、関心と造詣が深いのである。南原には、一般に文学など、政治現象として見なされない文化事象に対し、政治の萌芽を見つけ出す眼力がある。しかもそれが、現代の社会理論、文芸理論を学習した連中よりも、遥かに自然にできるのである。戦前の大正教養主義の只中で知的形成を遂げた人々の凄さはこの辺にある。

近代短歌は発展と衰退の途上にある。私は現代短歌の口語的、日常的表現に馴染みきることができない。頽落した日常生活の虚偽の意識を、芸術の真実の世界に持ち込むことは許されない。私は戦前/戦中/戦後に回帰したい。次は近藤芳美に移ろう。