戦後短歌ルネッサンス

近藤芳美の第一歌集については諸説ある。『早春歌』と言う人もいるし、『埃吹く街』と言う人もいる。発行日は『埃吹く街』の方が早かったようだが、いずれにせよ、私は後者を近藤芳美の処女作として認めたい。作家の本質はその処女作にすべてが表われるという。近藤芳美はこの歌集に、自身の個性のみならず、戦後時代精神ツアイト・ガイストを表現した。その結果、本書は彼を戦後歌壇の寵児たらしめ、以後、彼は『埃吹く街』を念頭に置かずして、新たに作品を詠むことも、歌集を編むことも叶わなくなった。作品は作家を代表する。『埃吹く街』は近藤芳美の代表作である。

いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ

巻頭一首。青年(近藤芳美)は、戦前のファシズム、軍国主義の時代と訣別する。戦後、それらに替わるイデオロギーは民主主義、平和主義なのかもしれないが、それについては言明していない。いずれにせよ、青年にとって困難な時代は続く。

さながらに焼けしトラツク寄り合ひて汀のごときあらき時雨よ

焼跡は軍政の統治下でも、それからの解放軍GHQの統制下でも変わらず見られた光景だった。かつて東京の焼跡に黒い雨が降った。その後、白い雨、すなわち時雨に変わったが、雨は雨である。

一人うつヴィタミン注射ひえびえと畳にたるる夜ふかくして

夜おそく腿に注射をうちて居る妻のうしろに吾は立ちたり

医者と看護師に頼ることなく、自分で注射を打つことができた時代。否、打つことを余儀なくなれた時代。ヒロポンを打つか、あるいはビタミンを打つか。当人たちの意識に本質的な差はなかったのではないか。

灰皿に残る彼らの吸殻を三人は吸う唯だまりつつ

かたへにて吾の煙草に咳きて居し妻の寝入りて冴えし夜となる

故障せる電車の床にかがまりて煙草を吸へりたれも醜く

近藤芳美の〈著者近影〉として、紙巻を吸っている写真が何点か残っている。愛煙家、少なくとも煙草は好きだったのではないか。本集にも、煙草にまつわる佳首が何首もある。各人がシケモクを拾い集めて、辞書の紙を破り、紙巻煙草を作った時代だった。『埃吹く街』の人々はよく煙草を吸った。一服しなければ、過酷な人生を乗り切ることができなかったのだ。

降り出せば明るくなりし夜の街軒をつたひて吾らは帰る

霧雨に吾らは濡れて帰り行く立場があれば君いさぎよく

にえ切らぬ口の表情昼来れば髪乱れつつ銀座をあゆむ

『埃吹く街』にはしばし雨が降る。雨は生活の厳しさの象徴であると同時に、青年達の出立を祝福しているのだ。雨に洗われた銀座の街は美しい。巷の埃、世界の夾雑物を洗い流してくれるからだろう。事物が鮮やかに見える。視界が一気に開かれるのだ。

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

短歌結社『未来』の創設/創刊を予感している。本誌が以後の近藤芳美の創作活動の拠点になったとすれば、本首を収録している『埃吹く街』はやはり、彼の代表作と言っても過言ではないだろう。優れた作品は、一過性に終始しないで、作家の未来の展望を拓くのだ。

にぶき音くもりの下にひびく夜をささやく如き声街にあり

不安と恐怖は『埃吹く街』に棲息している。戦後に生きる私達は、絶えずその影に怯えながら、抗いながら、創作し続けるしかないのだ。戦後の都会詠として、『埃吹く街』は短歌史、文学史に永遠に記録された。戦後が再び現象している今、省みられるべき歌集である。