大斎節

教会の大斎節のプログラムの第1回が無事に終了した。チャプレンを初め、企画・参加してくれた会衆のおかげだ。私は疲れを感じていたが、ミサが終わる頃には治っていた。しかし、大斎節の期間は酒を控えて、穏やかに規則正しく過ごそう。単純に会社の仕事が忙しいんだと思う。

昨夜、カール・バルト『教義学要綱』を読む。引き込まれるように、すいすい読み進めてしまうので、私に神学の才能ありやと一瞬思ってしまうが、幻想に過ぎないので、この勉強は気楽に続けようと思う。私の専攻は文学であり、これを基にして、生活を組み立てることが、私に新聞記者以後のキャリアを築くだろう。今は無理をしないことだ。

被造物の悲しみ

我らは知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを1

『新約聖書』は5、6回、繰り返し読んでいるが、遂に上記の言葉にぶつかった。こういう本質を突く、思想に富んだ言葉に出会うから、『聖書』は侮れない。いつか、小説や随筆のエピグラフに使いたいと思う。

一方、実生活の私は会社と教会に疲れを覚え始めている。社会から隠れる時間をもう少し増やしたい。


  1. 『ロマ人への書』8:22。

ウイスキー・ジンジャー

オンラインでの打ち合わせの後、ウイスキー・ジンジャーを拵える。ウイスキー・バックという呼称の方が一般的なのかもしれないが、私はジン・トニックに倣い、前者の方がしっくりくる。ベースを何で割っているのか、聞くだけで分かるからだ(ちなみにハイボールという呼称よりも、ウイスキー・ソーダと言う方が好きである)。

ベースになるウイスキーの銘柄は何でもよろしい。その日、その時の気分で決めればいい。雨降りの夜はスコッチで、暑い昼下がりはバーボン、何も考えたくなければ、ジャパニーズ。私の常備酒 サントリー・ホワイトは甘辛なので、ジンジャーエールによく合う(違和感なく、馴染みすぎるのが却って欠点だが)。

美味しく作るコツは、ベースとなるウイスキーを入れすぎないこと。こういう清涼飲料水で割る甘いカクテルは、味の方向性を割り材にすべて委ねてしまう方がいい。アルコールは添えるだけである。そんな他愛もないことを、飲みながら考えるのであった。

信仰・懐疑・善意

一見キリスト教を拒絶しているような態度に見えても、根底においてはむしろ真の意味で「信仰的」だといえる場合もありうる。逆に、一見キリスト教信仰があるかのようなポーズをとっていても、根底においてはむしろ「非信仰的」な場合も十分にありうる1

日本のキリスト教史を解説した、一見、軽い読み物かと思ったが、終盤の「信仰とは何か」と執拗に問う著者の真摯な態度に魅せられた。

少し私事の話をしたい。

黙想会に参加した後、少し落ち込んでいる。私には信仰が無いのではないか、不信心なのではないか、と思うようになったからである。前にも書いたが、私は黙想が得意ではない。毎朝3秒くらいはするが、これくらいで十分ではないかと思っている。長くても1分くらいである。本質は時間ではないと思う。訓練をすれば、純粋直観(観照)に大して時間はかからないだろう。そもそも私は黙る以上に読むこと、話すこと、書くことが大好きである。ウイスキーをイッパイ飲みながら、聖書の話をしたいがためにキリスト教徒をやっているようなものである。

話を『キリスト教と日本人』に戻そう。本書は著者が教会のご婦人に「あなたには信仰がない」と非難されたことがきっかけで書かれた。信仰は何か特定の対象を信じることを意味するのだろうか。信仰と懐疑はどのような関係にあるのだろうか。著者の石川氏はキリスト教徒をしていれば、当たり前に出てくる問題に正面から向き合っている。

ちなみに私は洗礼を受けた後でも、トーマス・マンの次の言に信頼を寄せている。信仰にはおそらく善意が含まれているのだろう。

私はあまり信仰を持っておりませんが、信仰というものをもあまり信じていないのです。むしろ、信仰がなくても存立し、まさしく懐疑の所産でありうる善意の方をはるかに信じているのであります2


  1. 石川明人『キリスト教と日本人:宣教史から信仰の本質を問う』筑摩書房、2019年、266頁。
  2. トーマス・マン「芸術家と社会」。

春眠

最近、睡眠時間が長い。仕事が忙しくて、疲れているんだと思う。今は休む時だ。

とはいえ、少しずつ小説の勉強をして、新聞記者の後の次のステップを作るべきだ。実作が最良の教師であるが、創作の時間がなかなか取れない。この辺りは生活リズムを改善することで、時間を捻出できるだろう。

夢を実現するために本気になる時が来たのではないだろうか。

沈黙と会話

私は一切を与えた。そしてあなたの一切を再び取り戻すことはわたしの意志である1

三鷹の修道院に1泊2日の黙想会に参加した。

その内容をここでは詳しく書かないが、三度の食事は栄養満点で美味しく、お代わり自由だったので、太ったような気がする。また、酒、煙草はもとより、コーヒー、紅茶などのカフェインも駄目だったので、神経がリセットされた感じがする。まさにデトックスである。修道院に行き、私は健康になって帰ってきた。

黙想会に参加して、分かったことがある。私は沈黙よりも会話が好きだ、という事実である。私のような凡夫でも、1日に1回、3~5秒間の黙想をする。時にはエレベーターの中でする。もう少し長くてもいいし、頻度も増やした方がいいのかもしれないと思うが、これだけでも生活は改まる。今の私はこれで十分ではないだろうか。

白状すると、研修期間中、私は本ばかり読んでいた。私はまだ勉強できる、読書をする体力があるんだ、と自信が着いた位だ。トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』はその中の一冊だ。修道院ではパソコン、スマートフォンを使うことは許されなかったので、万年筆でメモを取った。勉強法としてこれも良かった。

「我思うゆえに我存在する」。黙想会で乗り越えようとしたのは、このようなデカルト的な人間観だったと思うが、黙想を通じて、私が会得したのは「我話すゆえに我存在する」という人間観ではなかったか。それは畢竟「我書くゆえに我存在する」という人生観に至るのだ。

ということで、私は牧師にならない(なれない)と思うが、今何がしたいと訊かれれば、小説を読みたい、書きたい。そして、酒を飲みながら、聖書を語りたい、と答えるだろう。私は小説家/伝道師を目指すべきである。


  1. トマス・ア・ケンピス(池谷敏雄/訳)『キリストにならいて』 新教出版社、1955。

文化と酒

昨日、酒を飲まなかったので、今日はなんだか身体が軽やかだった。お腹の調子もいいし、私を密かに脅かし続ける痛風もなりを潜めたようだ。優れた健康上の効果を実感したので、今日も飲まずに居ようかと思ったが、コンビニの前を通ると、多分、飲んだ方が一人でも楽しい夜を過ごせると思ったので、チェリオのライフガードを2本買って帰った。

グラスに氷を入れ、ウヰルキンソンのジンとライフガードを1:3の割合で注ぐ。ジンは翠でもタンカレーでもボンベイサファイヤでもいいのだが(本当はビーフィーターが一番万能で使いやすい)、ライフガードの味で結局わからなくなるので、ウヰルキンソンでいい。

これが癖がなくて、けっこう美味しい。ベースをウォッカにしてもいいが、私は生憎ウォッカを飲む習慣はないので、ジンで善しとしている。ウィスキーもそうだが、ジンはストレートで飲んでもいいし、お湯割りにすると食事にも合うのだ。アングリカンが本場なのも嬉しい。セイヨウネズに浸けた薬酒は少々過ぎても身体に善いと言い訳ができる。

しかし、ウォッカも侮るべきではない。たまたま私の好きな銘柄がないだけで、白樺の木炭で濾過した味わいは他のスピリッツの追随を許さない。たしか、フィンランドの「フィンランディア」というウォッカが美味しかった。今ちょうど、シベリウスの同名の交響詩を聴いている。大国の力に負けない、そして、最後は芸術で皆がひとつになる。フィンランド国民の意思を感じるのである。酒——それは国民の文化を測るバロメーターである。

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